小説

『居酒屋タクシー』サクラギコウ(『粗忽長屋』)

「明日はお願いね」
 結婚当時から共働きを続けてきた空木は、ひとり娘のために妻と連絡を取り合いどちらかが早く帰るよう調整してきた。中でも特に大事なルールは
「娘の誕生日は家族3人で祝う」
というものだ。この日だけは娘が生まれた時からどんな理由があろうと、時間のやりくりをして約束は実行されてきた。
 しかしこの鉄の決まりも、娘の心境の変化でいとも簡単に終わることになった。中学生になった娘は家族と過ごすより友達といる方が楽しそうだ。その上明日は妻に外せない急な仕事が入った。
 役員待遇となった妻はより忙しくなり、今では空木より収入が多い。娘は学費の高い私学の中高一貫校へ通っている。空木の収入だけではとても通わせてやることはできないのだ。
 妻の急な仕事に真っ先に理解を示したのは娘だ。すかさず小遣いの値上げ交渉もしてきた。
「誕生会はいらない。その代わりに…」
 結局それを受け入れた。あれほど大変な思いをして約束を果たしてきたのに、家族の大事な鉄のルールが14回目であっさりと反故になったのだ。
 しかし誕生日当日に両親が二人共遅く帰るわけにはいかないと、明日は空木が早く帰ることにした。親の自己満足でしかないことは分かっていた。わかっているが思春期真っただ中の娘に親ができることはそんなことしかなかった。ささやかなブレーキなのだ。

 空木は明日早く帰るために今日は遅くまで仕事をすることにした。疲れが溜まっている。その上残業だ。頭も重く肩も固い。
 ふと気づくと、終電が行ってしまったあとだった。「しまった!」
 妻から家族ラインが入っていた。
「先に寝てます。明日早いので起こさないでね」

 社外へ出る。
 すると玄関前に一台のタクシーがスーッと滑り込んできた。他に待っている人はいなかった。終電後は駅前のタクシー乗り場はいつも混んでいる。並ばないと乗れないのだ。ちらほら雨も降りだしてきた。会社の前でタクシーを捕まえられるとは一日の最後に運が回ってきたようだ。
 前の座席のパワーウインドウが下がり、運転手が身を乗り出した。
「お客さん、どちらまで?」
 元気な声が返ってくる。郊外にある自宅の住所を言って素早く乗り込んだ。
 タクシーは屋根の上の行燈を格納すると赤い提灯を出して走り始めた。

「居酒屋タクシーにようこそ!」

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