小説

『居酒屋タクシー』サクラギコウ(『粗忽長屋』)

「え、居酒屋タクシー?」
「私は飲みませんから、ご安心ください!」
 後部座席には小さなテーブルが設えてあり、クーラーボックスにはビールが入っている。
「サービスです」という言葉にビール缶に思わず手を伸ばす。キンキンに冷えていた。プルトップを開け、喉に流し込む。
「クー――ッツ」
 根を詰めて仕事をしたあとなので五臓六腑にしみわたる。もう何年も退社後に飲んでから家に帰ったことがない。一杯飲んで疲れを落としてから帰りたいと思うこともあるが、娘の待つ家へ一刻でも早く帰ってやろうという想いの方が強い。特に最近は役職に就いた妻の帰りは遅くなりがちで、早く帰るのは空木の役目となることが多かった。
 首をコキコキと鳴らす。コチコチになった肩は少しぐらいのことでは治りそうもない。
「おつまみもありますよ」
 運転手が明るい声を掛けてくる。
「そういえば、夕飯も食べていなかった」
 座席後ろにはおつまみが色々置いてある。どれでもお好きなだけどうぞという言葉に甘えて物色する。「よっちゃんイカ」を見つける。昔は好きでよく食べた。袋を破ると懐かしいイカの匂いがする。味が一気に蘇った。結婚以来妻の意向で、家飲みでの酒のつまみはサラダなどの健康的なものと決まっていた。
 ビールを喉に流し、よっちゃんイカをかじる。ただそれだけでコチコチに固まっていたものが融けていくような気がした。
「ご満足いただいてます?」
「まんぞく、まんぞく。これで綺麗どころがいたら言うことなし!」
 空木は冗談を言った。しかし運転手はにこやかに「了解です!」と答えた。

 ある店の前でタクシーが停車すると女が乗り込んできて空木に優しく微笑んだ。だがだみ声だ。どうやら本物の女性ではないようだ。
 ビールの3本目を開けたころ家に到着した。料金はタクシー料金だけだった。「え、いいの?」「ほんとにいいの?」と空木は繰り返した。後ろ髪を引かれる思いでタクシーを降りた。
 運転手は「ありがとうございましたーっ!」と満面の笑顔で言うと、屋根の上の赤提灯を格納しながら走り去っていった。

 家は消灯し真っ暗だったが、玄関の外灯だけは赤々と照らされている。空木はご機嫌だった。ポケットに手を入れ鍵をさぐる。だが鍵が無い。昔から鍵をよく失くした。だからいつも鍵は上着の右ポケットの中と決めている。蓋つきのポケットなので、脱いだり着たりしたときも鍵が落ちることはない。
 鞄の中もくまなく探すが、無かった。
 空木は庭に回った。妻も娘も2階で寝ている。妻からの「明日早いので起こさないでね」というラインの文字が頭をかすめる。だがこのまま夜明かしするわけにもいかない。明日も仕事だ。後で平謝りするにしてもここはなんとか家に入れてもらうしかないのだ。
 居間の窓ガラスをノックする。

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