小説

『居酒屋タクシー』サクラギコウ(『粗忽長屋』)

 会社のビルをでる。と、玄関前に昨日のタクシーがすっと走りこんできた。すでに屋根の行燈は赤提灯に代わっている。
「え、今日も?」
 周りに人はいない。タクシーの後ろのドアがさっと開くと空木は躊躇することなく乗り込んだ。

 今日は早く帰る必要がない。空木は遠回りを告げた。運転手は相変わらず明るい声で応える。
 クーラーボックスにはビールのほかに焼酎やワインなども入っていた。おつまみは昨日よりグレードアップした物が置いてある。空木は赤ワインとブルーチーズを手に取った。

 空木はほどなく酩酊し始めた。今日も昨日につづき上機嫌だ。
「如何ですか、居酒屋タクシーは?」
「最高っ! これで綺麗どころがいればなぁー」
「ご用意できますよ」
 言い終わらないうちにタクシーは進路を変え猛スピードで走っていく。
 昨日の店の前で停まると、待ってましたとばかりに店の中から女が2人出て来て乗り込んだ。飛び切りの美女だった。今日は本物の女性のようだ。

 時間はあっという間に過ぎた。家の前にタクシーが横付けされる。降りたくなかったがそうもいかない。タクシーの料金表示は走っただけの金額が表示されている。空木は料金を払うと名残惜しそうに言った。
「このタクシーに乗りたいとき、どうしたらいいの?」
「申し訳ありません。予約は承っておりません」
 タクシーは屋根の上の赤提灯を行燈に代え走り去っていった。

 家に着いたのは12時を回っていた。まだ妻も娘も帰っていない。いくらなんでも遅すぎる。何の連絡もなくこんな時間まで帰ってないとは。
 スマホを取り出す。だが全ての通信機能が止まっていた。
 今日は鍵は持っている。背広の右ポケットから鍵を取り出し玄関を開け家に入った。

 いつも一番早く帰るのは娘だ。空木が早く帰れる時は、娘の習い事などへ寄り一緒に帰ってくる。だから空木が1人で真っ暗な家に帰ることはほとんどなかった。
「娘はいつも、こんな感じの家に帰っていたのか?」
 家の中は暗く、夏だというのにクーラーでもつけていたかのように冷え冷えとしている。スマホを取り出し通信機能を確かめるが、やはり繋がらない。壊れたのか? この家にイエ電はない。通信手段はそれぞれが持っているスマホだけだ。
 その時、ガラスをノックする硬質な音が聞こえてきた。
「タンタンタン、タンタンタン、タンタンタンタン、タン、タ、タ、タン」
空木の合図の音だ。急いで窓を開けてみるが誰もいなかった。そしてまた同じ音が聞こえきた。
「タンタンタン、タンタンタン、タンタンタンタン…」
「おーい俺だ。開けてくれよ!」
 あれは、あれは俺の声だ! 昨日の俺だ、間違いない!
「だが待てよ、となると、今ここに居るのは誰だ?」
 次の瞬間、浴室の方からドスン、バシャン!という大きな音が聞こえてきたた。

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