小説

『恋愛孫子』太田純平(『孫子』)

 三月の風がぼろい窓をガタガタ揺らす。薄い壁から忍び寄る寒さ。思わず半纏を羽織り直す。はあ。正直、世間の『三国志』ブームが腹立つ。蔓延する上辺だけの知識。下らないスマホアプリ。挙句に萌えキャラときた。真剣に東洋史研究を行っている者からすると、漫画やゲームでちょっと『三国志』をカジったからといって知ったような顔をしないでほしい。今の私のように、早稲田のボロアパートに籠って史料をひたすら読み下している大学生こそ――。
ピンポーン。珍しく玄関チャイムが鳴った。私はアマゾンなんか頼まないし、新聞の勧誘なんて百パー無視。だから無論、出ない。
 ピンポーン。二回までは無視。それがマイルール。
「お留守かなぁ」
 薄い玄関ドアから、来訪者と思しき若い女性の呟きが聞こえた。若い女性の時は出る。それもマイルール。私は慌てて玄関に向かい、ドアを開けた。
「!?」
「あ……」
 玄関の前に、一人の女神が立っていた。東洋の神秘、いや、世界三大美女の一人だろうか。彼女は恭しい声で「あ」と発すると、恐縮そうな顔で私を見つめた。
ま、まず眉毛が素晴らしい。黒色の天然もの。手入れをしていないのではない、この形が完璧なのだ。円らな瞳に涙袋。エルフのような長い耳、秋田出身のような肌の白さ、天使の微笑みのような口角に、唇の――。
「あのぉ……」
 イカン。私はハッとした。
「ごめんなさいお休みのところ。私、隣に引っ越して来た雪野と申します」
「は、はい」
「これ、つまらないものですが――」
 そう言って彼女は小包を差し出した。い、いまどき、いる?
 引っ越しの挨拶が出来る子なんて、いる?
 私は震える手で小包を受け取ると、彼女が「これからお世話になります。よろしくお願いします」といって隣の二〇三号室に消えて行くまで、酸素を体内に取り入れるのを忘れてしまった。

 
 曹操、曹操、曹操かぁ。
 あ~あ。もう死んじゃおっかなぁ。
 なに東洋史って。バカじゃない。ここ日本だし。
 雪野さんと出会ってから、約一時間が経過した。平日の昼下がり。大学は今、春休みである。もうどんなに机に向かっても、雪野さんの顔しか思い浮かばない。

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