小説

『恋愛孫子』太田純平(『孫子』)

 私は畳にゴロンと横になって、雪野さんから頂いたクッキーをかじった。
 ああ。雪野さんの味。だけどポロポロ床に落ちるクッキーのカス。
あ~あ。もう死んじゃおっかなぁ。
 すると、雪野さんの部屋の中から男のくぐもった声が聞こえた。
「!?」
 ここは家賃がとびきり安い木造アパート。壁はそこらの生ハムより薄い。私は壁にピタッと側頭部をつけ、聞き耳を立てた。
若い男の声。何やら世間話をしているようだ。ああ。彼氏か。そりゃそうだよな。あんな美女、男が放っておくわけ――いや、待てよ。引っ越して間もないから、プロバイダーか何かの業者の可能性も――。
「アッハッハッ!」
 私の期待を嘲笑うように、雪野さんの部屋から男女の笑い声が漏れた。
 彼氏だ。彼氏決定だ。プロバイダーの業者があんなに笑うはずがない。
 私は聞き耳をやめて、代わりに耳栓をはめた。
 さぁさぁ。男は黙って、東洋史研究。

 
 蛇口からポタポタと滴る音。今、下の階の人が箪笥の引き出しを開けた。モワッと淀んだ空気。窓なんて久しく開けていない。あれから何日経っただろう。正直、よく覚えていない。ていうかもう夕方かよ。
 さ、東洋史東洋史。そもそも『三国志』というのは、中国の三国時代について述べた歴史書である。多種多様な人物が登場するが、その中で最も偉大であり、最も影響力のある人物は誰か。それは、ぶっちぎりで曹操という人物である。この曹操という人物は、漫画やゲームのキャラクターの中では、主人公の引き立て役や、悪役に回る事が多い。劉備という人物を正義の主人公にしたり、諸葛亮孔明という人物をまるで神のように崇めたり、呂布という人物を最強だと讃えたり――。中国の三国時代における最重要人物は、圧倒的に曹操である。それは何故かというと、一つは、曹操という人物が、たった一人で中国全土を支配下に治める礎を築いたからである。また、武人、文人、政治家、兵法家、あらゆる面で優れていた曹操は、孫武の編んだ『孫子』という兵法書を、現代に伝わる形に編纂した。分かりやすくいえば、『孫子』という名の難しい映画に、曹操が字幕を付けたような感覚である。曹操が編纂した『孫子』が現代でも用いられているという事実が、どれほど偉大な事であるか世間は――。
 ピンポーン。チャイムが鳴った。ハイハイ。無視無視。
 ピンポーン。うるさいなぁ。もう雪野さんがウチを訪ねて来るなんて奇跡――いや、待てよ。律儀な雪野さんの事だ。旅行に行くから留守を頼むとか、実家から送られて来たリンゴのおすそ分けだとか、もしかしたら雪野さんの可能性も――っ!
 私は急いで玄関に向かい、ドアを開けた。
「?」
 するとドアの前に、一匹のガキンチョが突っ立っていた。小学五年生くらいだろうか。話した事はないが、見た事はある。確か下の階に住んでいる主婦の息子だったはずだ。

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