ただでさえジャワジャワせみ時雨がわずらわしいというのに、日陰でもグッショリ汗ばんでしまうというのに、近所の動物園は蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
園職員はもちろん警察と消防まで、逃げた動物を捕獲するための網を持ってあちらこちらに散らばってゆく。
彼らの姿が見えなくなると、身動き一つしない色白の女が立っている。
とたんに、雲が日光をギュッと絞って彼女のためにスポットライトを当てる。モノクロに見えていた周りの雑草がパッと鮮やかに色づいてフットライトになる。わずらわしかったはずのせみ時雨はスタンディングオベーションのよう。
千鶴の美貌は周囲の雰囲気を一変させるほどで、人間離れしている。
吉浜貴志は小学生の頃、刺繍の入ったランドセルのクラスメイトを奇妙に感じたので、友達にならなかった。
中学生と高校生の頃、体操着に書かれた『林』や『呉』や『星』といった同級生の苗字がタテ書きに見えたので、ヨコ書きルールを違反していると教師に猛抗議した。
大学生の頃、学食のチャーハンについていたのがあのスープでなはく味噌汁だったので、退学した。
違和感を何が何でも遠ざけたいタチのため、女性と交際してもアラが目についてしまって長続きしたためしがない。そんな吉浜でさえ人間離れしている、いわば違和感の塊である千鶴を見かけたときには、汗でベトつくシャツが気にならなくなっていた。
何とかしてコンタクトを図ろうと少年マンガで覚えた高精度のプロファイリング技術を使い、なるほど履き慣れないサンダルで靴ずれを起こしているのだな、と自信満々に判断してバンソウコウを差し出す。
千鶴は喉が渇いているだけだった。
吉浜はバツが悪そうにバンソウコウをポッケに押し込んで、強烈な日差しを浴びながら水を買いにゆき、千鶴に渡した次の瞬間には、逢瀬を重ねたわけでも、連絡先を交換したわけでも、互いの両親に報告したわけでもないのに同棲を始めていた。
「開けるわけないじゃん」
「絶対だよ、絶対に開けないでよ」
千鶴は吉浜にクギを刺し、ドアを開閉し、ズボンとパンツを下げる。
「よっこらせ」
ぬるい便座に腰かけて妊娠検査薬を前にあてがい、何だか収まりが悪いので今度は後ろにあてがい、これまた収まりが悪いのでやっぱり前に、いやいや後ろにとしばらく迷ってようやく前に落ち着き、ジョロロロと小便を引っかけ、おそるおそる検査薬を見ると手はビショビショに濡れてしまっていた。
同棲二日目に妊娠したとのたまう千鶴が狂人なのか、酷暑のせいで自分の頭がどうかしてしまったのかはこの際どうでもいい。いずれにしても千鶴と出会ったことは間違いだった、と吉浜はとこれみよがしに嘆いてみせる。