梶井基次郎は「桜の木の下には死体が埋まっている」と書いた。またある作家は、「満開の桜の木の下には、狂気と冷たい虚無、そして孤独がある」のだと描いた。
そうなのだろうか。別に、桜の木の下に限った事じゃあ無いと、僕は思う。
レールから落ちて弛んだカーテンの隙間から、曇った窓硝子が覗いている。うっすらと映り込む公園の桜は、確かまだ三分咲きくらいにしかなっていなかったはずだ。
そんな頃にだって見つけられる。狂気も、冷たい虚無も、孤独も。わざわざ満開の桜を探さなくても、全部この部屋の中に揃っている。死体だってそのうち揃うだろう。
「何を見てるの」
かすれた声に訊ねられて、僕は恐る恐る伏せていた顔を持ち上げる。ベッドの上に横たわった妻を、視界の上端でやっと捉える。
「私が死ねばいいと思ってるんでしょ」
そんな事はと反論する僕の声は小さく、嫌な笑い声に押し退けられて汚れた床に落っこちる。妻は何が面白いのか、胸を喘がせて笑っている。彼女の体を覆い隠す、食物や体液で汚れた布団はほとんど震えもしなかった。
「お前が死ねよ」
笑いの喘鳴を引きずりながら、妻が僕に呪詛を吐く。
「お前が死ね!」
ぜいぜいと痰の絡んだ息遣いを聞きながら、僕は無力に項垂れる。それを見て、興奮したけだものの様な声が更に僕を甚振っても、ただ受け止める他にやりようがなかった。もう涙も出てこない。
妻は死病に罹っている。
妻は、それは綺麗で優しいひとだった。
初めて出会ったのは学生の頃、ちょっとしたグループ活動の交流会でだった。茶色の髪が多い中、彼女の綺麗な黒い髪の毛はよく目についた。彼女には友人が多くいた。強く押し出す様子もないのに、いつも女性陣の中心になっていた。
僕を含めた男たちは、みんな彼女と親しくなりたがっていた。けれど小心者の僕は当然として、美人とみれば声を掛けにいく積極的な友人でさえ、彼女と気安く話せなかった。強引に近付こうとする奴も、不思議といなかった。彼女自身に何の屈託もなく、男の目から見ると少しばかり無防備にすら見えたのに。彼女には、そういう所があった。
そんなひとを恋人に、やがて妻にするといった時には、やっぱり非常なやっかみを受けたものだった。あの子を泣かしたらただじゃ済まさないぞと、披露宴では共通の友人達から散々に脅されもしたが、最後にはおめでとうと言ってくれた。