小説

『百本の芍薬』末永政和(『百夜通い』『夢十夜』)

「だってあなた、どうせ死んでしまうでしょう」
 女は長い髪を枕に敷いて、物陰に潜む男にそう言った。女の声はか細いが、静かな夜にしんみりと響き渡る。時折遠く野犬の吠え声が聞こえてくるばかりで、ほかには物音ひとつしない夜だった。
 女は名を、小野小町という。かつては瑕なき容色と歌の才とでその名を知らぬ者はなかったが、今や歳衰えて人前に姿をあらわすことはとんとなくなった。過去にしがみつけばおのずと意固地になるものか、今もこうして、自分を慕ってやって来た男に無茶を押し付けて悦んでいる。
 歌人の才のひとつに、耳の良さがある。優れた歌人は虫の音や風のさやぎ、衣擦れや果ては露の落ちる音までを聞き分け、それらを言葉に結晶する。いま小町の耳に聞こえてくるのは、男の抑えた呼吸の音だった。遠い道のりをやって来たせいかやや上擦ったような吐息のなかに、どこか濁った音が混じっている。ああこの男は肺を病んでいるのだとすぐに知れた。
 男は小町に思いを告げるために、病をおしてやってきたのだった。しかし小町にとっては何のえにしもない男ゆえ、心動かされる道理もない。そこで小町が出した条件は「私のもとに百の夜を通いなさい」というものだった。見事百夜を通ったならば、私はあなたと契りを交わそう。しかしそれまでは、決してあなたに姿を見せはしない。今後言葉を投げかけることもしない。あなたは毎夜、ここを訪れた証拠に芍薬の花を置いていきなさい。
 男は疑うこともせず、「ならば私は夜毎を駆けて、真白の芍薬をあなたに捧げよう」と誓った。愛を証すにこれほどふさわしい道具はないように思われた。
 男の屋敷からここまでは、一里あまりを越えねばならない。決して無理な距離ではないが、月明かりを頼りに芍薬の花を守りながら歩くのは、そう容易いことではない。それでも彼は「安きことだ」と請け負った。

 男は名を、深草少将といった。人の目にとまるほどの偉丈夫でもなく、優雅や気品とも遠い男であった。若いころ、小町の歌にひどく感銘を受けて、以来彼女を激しく慕うようになった。たまたま自分が移り住んだ場所が小町と縁のある土地と知り、矢も盾もたまらずこうして小町の屋敷を訪れたのだった。
 別れ際、小町が投げかけた言葉が頭から離れなかった。
「だってあなた、どうせ死んでしまうでしょう」
 それ以上を小町は口にしなかったが、意味のない戯れとも思えない。この病のことを言っているのだろうか。体調が優れぬのは昔からのことで、病とはいえ少将自身はさほど気にもとめていなかったのだ。約束を取り付けたことを喜ぶべきなのに、少将の足取りは重かった。

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