小説

『天の羽衣』五香水貴(『天の羽衣』)

 まだ冬の気配が残る三月の終わり、自分たちは駅のホームに居た。小さなキャリーケースだけを持った天音を不審に思い尋ねると、それ以外の荷物は引っ越し屋が既に持っていっているのだと言う。地元の大学にしか受からなかった自分と、東京の大学に進学する天音との遠距離恋愛の始まりは、気持ちにも冷たい風を吹かせていた。新幹線の出発を告げるホームのアナウンスを聞き、「じゃあ、行くね。一人暮らしだから、こっちにはいつでも来てね」と言う天音に、小さな紙袋を渡した。「餞別?」と言って笑って受け取った天音は、紙袋の中身を見て、不可思議な顔をした。
 「あの時、ワイシャツ盗ったの、俺なんだ」
 そう言う自分と、真顔でデッキに立つ天音との間は、無情な機械音と共に扉で遮断された。
 過ぎて行く新幹線を、ただただ静かに見送った。

 その後、東京へ行った天音を、地元で見る事は一切無かった。謝罪のLINEも、時間帯を変えて何度もかけた電話も、自分たちの担任だった教師が急死した際、「タカせん死んだって」と送ったLINEも、彼女が受けることはなかった。天音のワイシャツが隠されていたクローゼットの一角に顔を突っ込んでみても、もうあの甘い香りはしない。クローゼットの中で項垂れるように声を押し殺して泣くことしかできなかった。

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