小説

『なのに、俺は』ウダ・タマキ(『幸福』)

「ふっ、はっ、よっと」
 白とグレーのタイルが不規則に並ぶ歩道を整わないステップで進む。足が絡みそうな小さな一歩と跳ねるような大きな一歩で白いタイルだけを踏み、グレーに落ちればたちまち燃え尽きてしまう、なんてことを博人は空想していた。
 最終電車がけたたましく頭上の高架を通り過ぎて行った。今日も一日が終わろうとしている。久しぶりに飲んだ酒にひと時の小さな幸せを噛みしめながら、また訪れる明日という暗澹たる現実へと博人は向かう。

『BAR KAZUMI』
 ネーミングセンスは冴えないが、間接照明の仄明るい店内に静かなジャズが流れる空間は束の間の癒しをくれた。
 久しく口にしていなかった酒はオリジナルカクテルの『クレセント・ムーン』。グラスの縁に飾られたカットレモンは湖上に浮かぶ三日月のように美しかった。
「うまっ!」
 甘味と酸味がほどよく、空腹につまみのミックスナッツが進んだ。
「顔色悪くない? ちゃんと食べてんの? ガイコツみたいよ」
 幼なじみのカズミはいつも優しい言葉を博人にかける時、ちょっぴりスパイスを加える。カクテルのようには甘くない。
「相変わらず一言多いな。大丈夫だよ、デブ」
「ふんっ。なら、いいけどね」
「あぁ。余裕さ」
 僅かに視線を落とす博人にカウンター越しのカズミが丸い顔を寄せた。まばたきに長いまつげがバサバサと揺れる。
「あんた、死ぬんじゃないわよ」
 唐辛子のように真っ赤な唇から放たれたきつめのスパイス。どストレートな言葉が妙に嬉しくて、博人は泣きそうになるのを堪えた。

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