小説

『なのに、俺は』ウダ・タマキ(『幸福』)

「頑張りなさいよ。まだまだこれからでしょうに」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 ばあちゃん。一生懸命育ててくれたのに。なのに、俺は。こんな俺でごめん。
 外に出て振り返ると、人気の無い洋館が佇み『売物件』という看板が門扉にぶら下がっていた。
 沈みかけた太陽が街の至るところに長い影をつくり、空を赤く染めている。綺麗だなと、博人の心は素直に動いた。
「よしっ」
 一歩、二歩と後ろへ下がり、ホップステップジャンプで横断歩道の白線を一つ飛ばしで踏み締めた。
 ふっ、ふっ、ほっ! 
「なぁにしてんの、あんた」
「か、和樹! お前こそなんでここに」
「ウォーキングよ。てか、和樹じゃなくてカズミだから!」
 博人は無意識にカズミの胸に飛び込んでいた。
「いやっ! なによ、気持ち悪い!」
「俺、人生やり直せるかな」
「当たり前でしょっ」
 カズミが博人の頭をポンポンと叩く。博人は涙を堪えた。
「クレセント・ムーン。三日月ってのは、物事のはじまりを意味するのよ」
「そっか。ありがとな」
 カズミが赤く染まる顔を博人に近付けた。バーで会った時よりも随分と質素な顔を。
「ほっぺたに米粒付いてるわよ」
「マジか」 
 指で摘み、舌に載せた米粒には確かに塩の味を感じた。
「なぁ」
「何よ?」
「貴金属なんかより、おむすびのほうがずっと美しいよな」
「はっ? あんた、頭おかしくなった? あたしは貴金属がいいわ。ガハハッ」
 街を歩く二人の影が少しずつ薄くなり始めた。夜を纏った空には、昨日よりも少し満ちた月が昇っていた。

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