小説

『なのに、俺は』ウダ・タマキ(『幸福』)

 人の住む気配は玄関脇に立てかけられた杖にあった。住人は高齢者のみと推測される。
 幸いなことに門扉が僅かに開いていた。
「お邪魔しますよ」
 誰に言うわけでもなく、せめてもの礼儀としてそう呟き門扉に手をかける。
「何か用事なの?」
 背後からの声に心臓が止まりそうだった。赤いニット帽を被った少女が、澄んだ丸い目を博人に向けていた。
「えっあぁぁ、まぁ」
 咄嗟に言葉が出てこなかった。子どもにさえうまく取り繕えない。
「ここね、ユーレイが出るんだよ」
「ユーレイ?」
「そう。だからね、みんなここには近付か……」
 女の子は丸い目をさらに丸くし、言葉の途中で逃げるように駆け出した。
 振り返ると錆びた蝶番が低く軋む音を立て、ドアがゆっくり開き始めている。隙間から覗く細い指に指輪の大きさが際立つ。
 博人は思わず唾を飲み込んだ。
「何か?」
「あ、いや、門扉が開いていたので大丈夫かなって」
 だからって勝手に入る奴がいるか!  
 自らの言葉の矛盾に心の中でツッコんだ。
 女性は全身黒ずくめの洋服を身に纏い、キャスケットを深くかぶりマスクをしているので顔は確認できないが、その声と手の皺、浮かび上がる血管から八十くらいと思われる。
「出かけようとしたら忘れ物。ほんと、年はとりたくないね」
 聖人とは異なるが何事にも動じぬ落ち着き払った独特な雰囲気には、優しさよりも心を見透かされるような恐怖を覚えた。さっきの少女の言葉が甦る。

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