小説

『伊勢志摩の人魚』伊藤東京(『人魚姫』)

 私の家は伊勢志摩で旅館をしている。小さい旅館だけれど、お客さんとの縁に恵まれ繁盛している。父が主に経営し、母はおもてなしの面でアルバイトの人たちに指導をしたり、一緒に旅館を居心地の良い状態に保っている。高校三年生の私は海女の見習いで、私より三つ年上の姉は新人海女だ。町のベテラン海女と一緒に時々海女漁に行かせてもらい、その技術を勉強させてもらっている。
 旅館の売りは海女が採ってきたばかりの海鮮物を夕食に提供することで、それを求めてわざわざ足を運んでくれるお客さんも少なくない。その夕食の中に時々、自分が採ってきたものを並べて貰えることがある。それが海女見習いの私にとって功績を讃えられたように感じられる嬉しい時だ。
 けれど私が海女見習いをしているのは、皆に伊勢志摩の海鮮物を堪能してもらいたいからではない。ただ海に潜ることが楽しいからだ。
 子供の時、湯船に頭まで入って人魚のふりをして遊んだ。その時からずっと、ただ海の中に潜ることが好きだ。なので、海女の見習いになることは私にとって自然な流れだった。

 
 自習時間に担任がクラスメイトを出席番号順に一人一人呼び出してから、初めて進路希望についての個別面談をする日が今日だと気付いた。教師のいない教室で、まるで小雨のように生徒たちが声を潜めて、ぽつりぽつりと静かに話し始めた。皆、進路についてどうしたのか話し合っているようで、都会の大学に行くつもりの人や地元の大学に行く人、専門学校に行きたいという人がいた。真面目に自習勉強をする人も何人かいて、皆何かしら目標に向かって進んでいる。それが私を不安にさせた。
 私の前の番号の人が教室に帰ってきたので、私は角にある空き教室に向かった。
 空き教室にある机は壁際に綺麗に整頓されていて、その中央に二つの机が迎えあって置かれている。窓側に先生が座っていて反対側に空きの椅子が置いてある。
 席につくと先生は机の収納部分から一枚の紙を取り出した。私が前に提出した進路希望書の紙だ。
「美波さんはまだ決まってないってことであってるのかな?」
「はい。」
「そっか。夏休み前だから、受験するならそろそろ決めておかないと大変だけど、それは分かってる?」
「分かってるんですけど、どうしたいのかよく分からなくて。親は大学に行ってほしいみたいで。姉も私は頭がいいから都会に行けって。」
「美波さんはどうしたいの。」
「私は…。」

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