小説

『そのとき、ジュネーヴでは』夏迫杏(『高瀬舟(森鴎外)』(京都))

 笛を荒く鳴らしたような音をたてて、春一番が吹いた。花粉を孕んだ風を顔面にもろに受けたトミナガは、くし、くし、と嚔をしながら、痒みによって出てくる涙を手の甲で拭った。
「花粉症け?」
「うん、ほんま毎年死にそう」
 トミナガは鼻声で答えて、もはやマスクに染みこもうとしている鼻水を強く啜り、けほけほと咳こんだ。大変そうやなあ、とキタノは暢気におもう。ふたりを見張っていた武志は目に小さな虫が入り、ひどい痛みに静かに悶絶していた。
 橋の下で、春一番に攫われてきたひとひらの枯れ葉が西高瀬川に落ちて流れていく。枯れ葉は二日後に淀川で朽ちてばらばらになってなくなってしまったけれど、枯れ葉を溶かした川の水は大阪湾に注がれて海になり、透明な航海をはじめる。どうしようもないくらいに、永遠に。
 そのとき、ジュネーヴではきのうまでの雨が止み、ウルズラは三日ぶりに寝室の窓を開けた。

1 2 3 4 5 6