「僕の夢は、ピアニストです」
翌日、学校の三者面談で、太郎は丸めがねのチューターと同じことを聞かれたので、こう答えた。担任は失笑して「聞いた先生が悪かった、そんなこと考えなくていいから勉強しよう」と言い、母親も「この子、何言ってるんでしょうね…」と濁した。母親は、不眠症を発症してから太郎の好きなピアノを弾かせなかった。ニューヒューマンになることが、彼のためだと思って深夜塾に打ち込ませたのだった。太郎もはじめはその気もあったが、深夜塾に通うほど、自分にはそれほどの才能はないことに気づいてしまった。それなのに、なぜ自分は起きていなければならないのだろうかと悩んでいた。眠れさえすればこの状況を脱せると考え、幾度も目をつむってみたが、彼の身体は常に緊張して、緩むことはなかった。学校の保健室に相談に行ったこともあったが、「ここを乗り越えれば楽になるよ」と言って肩をタップされるだけだった。
三者面談が終わると、太郎は塾に行くからと言って、機嫌を悪くした母親と別れた。「いい加減、目を覚ましなさい」と母親は怒っていたが、とっくにずっと、目は覚めている。夢を見ているのは、母や先生の方ではないだろうか。太郎はふと、塾に向かうのをやめて、山型線の長者駅へ向かった。丸めがねのチューターの提案にのってやろうと思ったのだ。早速今日、連れていってくれる約束をしていた。気がのらなければすっぽかすつもりだったが、胸糞の悪さが彼を駅に向かわせた。
電車に乗ることは久しぶりだった。学校も塾も自宅から徒歩圏内だった太郎は、電車に乗らない生活を送っていた。不眠症発症後、昼は学校、その後は朝まで塾という生活を続けていた。
だからこの日、駅までの道は太郎にとって新鮮だった。紅葉したイチョウがまぶしく感じた。途中、知らない人に肩をタップされたが気にしなかった。