小説

『夕顔とふうせんかずら』菅野むう(『源氏物語』より「夕顔」)

 玄はわざわざ自分の靴を持ってきて、庭に出た。そして、まつ、つばき、かいづかいぶき……と樹木の名前を挙げていく。そして、濡れ縁の陰で生い茂るしぼんだ露草に触れて、この花、朝に咲いているのを見るのが好きなんだよね、と言った。
 あたしは黙って、玄の後ろからついていった。玄はフェンスに絡まる夕顔に目を留めた。だが、それ以上に、夕顔の隣で蔓を伸ばし、小さく丸く膨らむ青い実に興味を持ったようだ。
「和良さん、これはほおずきなの?」
 玄は、急に子供のような表情になり、嬉しそうに振り返った。あたしは首を振って、ただ「ふうせんかずらっていうんだよ」と、植物の名を告げた。その青く小さい紙風船のような実は、赤くなることはなく、茶色く熟してしばらくそのままの状態が続く。そして、おしまい。決して赤く美しい実になることはないのだ。
「小さい白い花が咲いてる。かわいい」
 あたしが物思いに耽っていると、いつの間にか玄はあたしの顔を覗き込んで笑っていた。
「よく、こんな可愛いものを見つけたね。俺、ほおずきより、こっちの方が好きだな」
 そして——今でもあれがなんであったのか、わからないのだけど——玄は、あたしのうなじに、掌でそっと包み込むように、触れた。その手の感触に全身がざわっとして、あたしは思わず飛び上がった。玄は息がかかるほど近くにいて、無言でじっとあたしを見つめている。
 何か新しいことが起こり始めている、と一瞬、思った。
 それはきっと、期待感だった。例えるなら、夜明けに閉じたカーテンの隙間からひとすじの光が暗い部屋に差し込むようなイメージだった。
 だけど——と同時に、キッチンの排水溝のぬめりに意図せず触ってしまった時のような、何とも言えない不快で嫌な気持ちになったのだ。あたしは顔をあげると、玄をにらみつけた。
 しばらく、そうしていただろうか。玄は、そっときびすを返すと家の方へ戻って行った。あたしは大きく息を吐き、居間に駆け戻った。そこに玄の姿はなかった。
 あたしは、猛然とちゃぶ台の上の残ったおかずにラップをかけると、ぬるくなりかけた白ワインをグラスに注いで、ぐいっと煽った。

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