小説

『大晦日の夜』太田純平(『藪入り(落語)』)

「帰る」
「か、帰るって――」
「だから来たくなかったんだよ」
「そんな――」
 鞄とジャケットを手に猛然と出て行こうとする大輝。
「ちょっと大輝!」
 郁子が息子の腕を取って引き止めると、大輝は背中を向けたまま、虚空に向かって言い放った。
「あのカネは、給料の3か月分だよ」
 郁子は驚きを共有するため夫の顔を見た。真意を測りかね固まっている健作。
「正社員になったから、今までの恩返しにと思って、カネを渡そうと思ったんだよ。定年で嘱託社員になって、給料が減ったとか、生活がカツカツだとかよく言ってただろ? だから、お世話になった恩返しにと思って、渡そうと持って来たんだよ」
「だ、だけどアンタ、あんな現金を、財布の中にそのままって――」
「最初は封筒に入れてたんだけど、ふとした拍子に鞄から落ちたんだ。その時はたまたま気付いて拾ったから良かったけど、これじゃあ落とすなと思って、あえて財布の中に入れたんだ。財布なら小銭も入ってるから気付きやすいし」
 健作は凝然と立っていた。反省と感動の波がぶつかり合って互いに譲らない。
「だけど3か月分って、アンタの生活が大変じゃないの?」
「俺は別に、一人暮らしだし、贅沢しなきゃあ、なに不自由なく暮らせるし。それに貧乏が身に染みると、節約が楽しくなってくるんだ」
 もはや頑なではなくなった大輝の手からジャケットと鞄を取ると、郁子は彫刻と化した健作に「お父さん」と声を掛けた。何か一言いってやってください、という穏やかな声で。
「そうかぁ……」
 健作の喉の奥から小さく漏れた。まだ興奮が冷めずに上手く言葉が出て来ない。そんな口下手な夫を郁子が支える。
「お父さんはね、さっき、大輝のお財布の中に、お金を入れてあげようとしたのよ。お年玉って歳でもないけど、一人暮らしで貧乏してるアンタのためにって」
「……」
 まだ父を許す気にはなれなかった大輝も、母の言葉にようやく落としどころが生まれた。蓋を開けてみれば、ただ不器用な親子、それだけのことだった。
「さっ、食べよ」
 郁子が誘い、再び家族三人、食卓につく。大輝の手元には郁子が持って来た炭酸ジュースが。それを見た健作は、日本酒の瓶を持って、息子に言った。
「一杯やらないか?」
「……あぁ」

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