学校から帰ると母さんの姿はありませんでした。炊飯器から炊き立てのご飯の湯気が上り、温もりの残る鍋からはカレーの香りが漂っていました。
僕は思いました。母さんが二度とこの家に戻ることはないのだろうと。
「大丈夫さ。これからは父さんがしっかりするから。酒もギャンブルもやめる。約束する」
泣くのを堪える僕を安心させようと、あなたはそう言って微笑みましたが、その顔が僕にはどうしようもなく憎くてたまりませんでした。どうして、まだ十歳の子どもが母親の幸せを願い、自分に降りかかった不幸を受け入れ我慢する必要があったでしょうか。全てはあなたのせいです。
あなたは少なくとも僕には愛情を注いでくれていたから、それをわかっていた母さんは僕を置いて出て行くと決意できたのでしょう。
母さんがいなくなり、あなたが努力してお酒もギャンブルも断ったのは事実です。しかし、母さんが帰ってくることはありませんでした。そもそも、そんなことはずっと前から父親として果たすべき当然の責務だったはずです。
いくらあなたが僕に愛情を注いでも、あなたが犯した過ちを許すには、少年時代の僕にはまだ十分ではありませんでした。
まだ僕の中に憎しみは残っています。しかし、一方で子どもができ父親になろうとしているいま、僕がずっとあなたを父親と認めなかった後悔と、祖父になる事実を知らせようとしない罪悪感は確かに存在するのです。
そんなことを考えた矢先、病院からの連絡でした。
あなたは何年も連絡を絶っていた僕のことをまだ息子だと思い、合っているかわからない僕の連絡先を病院に告げていたのですね。幸か不幸か僕はずっと携帯の番号を変えようとはしませんでした。