いずれ、あなたの記憶からは消えてしまうかもしれない辛い過去が僕にはありますから。
小学生の僕には随分と深い夏の夜のことでした。暑さに寝付けずにいると、外の路地からやけに騒がしい声が近付いてくるのが聞こえました。ガラガラと激しい音を立て、玄関の引き戸が開くのと同時に「ただいま!」というあなたの呂律の回らない声が家中に轟きました。
息を殺して戸の隙間から覗き見ると、玄関の三和土に二人の警察官に両脇を抱えられたあなたの姿があったのです。その頭には幾重にも包帯が巻かれていました。
駅のホームで酔って見境を失ったあなたが、チンピラに喧嘩をふっかけ一方的に殴られたという警察官の話が聞こえてきました。被害届がどうとか難しい話を続ける警察官に対し、母さんは懇願していました。
「被害届は出しませんから、どうか相手さんを罪に問わないで下さい。全部、この人が悪いんです。申し訳ございません」
「うるさい!」
あなたの怒声と共に高く乾いた音が響き、母さんのすすり泣く声が続きました。
ギャンブルとお酒。あなたの堕落した生活に堪え忍んできた母さんは、何度もお酒をやめるようあなたにお願いしたはずです。しかし、ついにお酒の勢いで過ちを犯したくせに、あなたは母さんにまで手をあげました。
翌朝、母さんは目覚めの僕を抱きしめると耳元で囁いたのです。
「孝明、母さんと一緒にどこか遠くへ行こうか」
「学校、変わるってこと?」
僕の不安そうな声に、母さんはどうにか笑みを浮かべて言いました。
「ううん、大丈夫。孝明はずっと友達と一緒よ。何も変わらないから」
それは絞り出すような声でした。
いつもより強く、長く僕の頭を撫でる母さんの目に涙が滲んでいるのが見えました。