小説

『四季旅館』阿部凌大(『浦島太郎』)

「どうしても、帰られるのですか」
 私はその景色と同じように、この女将にも、心を奪われていたのかもしれなかった。
「いつまでも世話になってばかりでいるのは、私の生き方に反しますので」
 気づけばそこに亀山君の姿が戻っていた。
「五十嵐さん、残念ですがもう外は、」
「分かっているよ。これだけの四季の移ろいを見ていたんだ。外の世界ではもう、何十年、いや何百年という年月が経っているのだろう?」
 亀山君は頷いた。
「竜宮城。まさにこの旅館の名前の通りだ。そして君は、こうして私を救ってくれたんだろう?世の中に疲弊し、自殺の準備を整えていた私を」
「……はい」
「おそらくはもう、私を悩ませていたものや人なんてすっかりと消え去ってしまってるだろう。だからもう、私は行くよ。……けどこんな綺麗なものを見ることが出来て、自分すらも、こんな美しいものの一部であるのかもしれないと思うことが出来て、私はもう少しだけ、生きてみようと思えた。本当にありがとう」
「……では最後にこれを」
 そう言って女将は、いやおそらくは乙姫様は、私に小さな箱を手渡した。
「たとえありとあらゆるものが移り変わっていたとしても、またそれに類するなにかは、あなたを襲い、苦しめるかもしれません。そしてそれに耐えることが出来なくなった時、これを開けてください」

 
 私は旅館を後にし、新しい世界の中へと足を踏み出した。それから幾多の荒波や理不尽に襲われることがあれど、私はその中で生きていくことが出来た。そして気づけば私は随分と歳を取り、一人きりの病室の中で、ゆっくりと自分の生命が終わりゆくのを待っているのだった。
 傍らに置かれた箱を手に取った。この箱の存在があったからこそ、私はここまで生きてこれたのかもしれない。そしてそれを開けるとすれば今だった。箱を開けると、そこから白い煙が立ち昇り、ゆっくりと私の身体を包んだ。手のひらを眺めると、その揺らめく煙に溶けだすように、私の身体も少しずつ、煙となっていくのが分かった。煙になった私は病室の開かれた窓から外へと流れ、広がり、その景色の中へ同化していった。

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