小説

『君に見せたかった、ふるさとの花』さくらぎこう(『西行法師作「山家集」「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」』)

 羨望から妬みに変わった心を抱えたまま、長い間連絡を絶ってきた自分が急に小さな人間に思えた。彼の詳細を知らないでいることで、自分の疚しい心に蓋をしてきたのだ。
「それと」
 山下が少し言い淀んだ。
「妻がもう長くないんだ」と抑揚のない声で言った。
 経営が思わしくないこともあり、余命宣告された妻のために会社を閉じ、傍にいてやりたいと考えたのだという。
「行こう行こうと言いながら、行けなかった場所に2人で行き、やろうやろうと思ってできなかったことを一つずつ妻に見せようと考えた」
 彼はそこまで言って一息つき、付け足した。
「おまえに逢うこともその一つだった」
 私は言葉が出なかった。気が利いた言葉で山下を励ましてやりたかったが何も言えなかった。
初めて電話をもらった梅雨のときから1か月近く経っていた。その間に春子さんは急速に悪くなっていったのだという。私との約束もキャンセルしようと考えたが、彼女が「逢って交友を復活させて欲しい」と望んだのだという。
私はますます自分の卑屈さを思い知らされ、言葉を失っていた。
「最近、長谷寺の桜を見たいって、頻りに言うんだ」
 彼女が長谷寺の桜を見るためには、暑い夏を越し、厳しい冬を生き抜かないと見ることはできない。
「俺にできることはないか? 何でもするぞ」
 山下はありがとうと小さく言った。今までも妻から長谷寺の桜を見に行こうと言われたことがあったが、長谷寺は有名であるがゆえに、桜の季節は混んでいてゆっくり花を見ることはできない。桜なんて日本中にあるのだから、わざわざ人ごみの中にいくこともないと、近くの公園の桜などで済ませていたのだと自称気味に打ち明けた。
「それを、今痛烈に後悔している」
 と、吐き出すように言った。

1 2 3 4 5 6