小説

『君に見せたかった、ふるさとの花』さくらぎこう(『西行法師作「山家集」「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」』)

 高校時代の旧友の山下から突然電話を貰った。退職したのなら逢わないかという誘いだった。
 山下は大手出版社勤務を経て、今は小さな出版社を経営している。
 高校生の頃、私と山下はともに本好きで知られていた。だから将来の夢は出版関係というのは2人の共通のものだった。私も山下も夢を語り合い、大学卒業までは頻繁に連絡を取り合っていた。
 親の反対と言うこともあったが、私は入社試験に落ち、山下は合格した。
 それ以来、2人の距離は急速に離れて行った。山下は私を気遣い疎遠になり、私も逢わす顔がないと考えていた。
 その後、山下は高校の同級生だった西島春子と結婚した。私がそれを知ったのは、彼らの結婚から何年も経ってからだった。
 高校時代、私は春子が好きだった。だから誰からも情報が届かなかったのかも知れない。皆が気遣ってくれたのだろう。

 
 梅雨が明けたら逢おうと約束した山下との待ち合わせに、彼の家の近くにある全国チェーンの居酒屋を提案され、二つ返事で了解した。しっとりと落ち着いた店では、話が詰まったときに困る。会っていなかった時間が長い分、二人の間にできた超えられないコミュニケーションの溝を、ざわざわとした居酒屋なら埋めてもらえるような気がした。
 山下と逢ったのは梅雨が明け、じりじりした夏がすぐそこまで来ているときだった。彼は確かに老けてはいたが、あの頃の面影は残っていて見間違うことはなかった。
 私は酒とつまみが来るまでの間、ヤマボウシの写真を見せた。
「家のベランダにあるヤマボウシなんだ」
 少しは話が発展するかと考えた。
「この花に見えるのは本当は葉でね」
 そこで山下が突然笑い出した。
「おいおいおい、忘れてないか。小さいけど俺は今出版社の経営者だぞ」
 彼はヤマボウシのことは熟知していた。専門家に準ずる知識のようだ。最近は専門書などの出版をメインにしているからだと笑われた。
 少し考えれば分かることだった。そんなことも分からなくなっているほど、私の能力は劣化しているのかと恥じた。
 そんな私を労わるかのように彼が言った。
「それも限界でね、会社を閉じようと考えている」
 子どもの頃からの夢を叶え、今は定年のない出版社の経営者だ。色々大変だろうと思うことはあるが、そこまで経営が追い詰められているとは思いもしなかった。

 

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