小説

『葡萄』白川慎二(『檸檬』梶井基次郎)

 頭が熱く、こめかみの辺りが脈打つたびにギシギシと軋るように痛む。胸の上には鉛のように重い暗黒の情念――怒り、焦り、孤独感、中途半端な諦念、それらを総和して、それ以上のものになった不吉な塊――が居座り続けている。この身内に籠った熱が果たしてコロナウィルスによるものなのか、単なる風邪なのかは知らない。だけれども、黒々と渦を巻く情念の由来ついては言えることがある。
職を辞したこと。
都会へ出て、寝具のセールスの職に就いたのだが、上司と反りが合わず、ことあるごとにため息をつかれ、嫌味を言われた。それが酸のように僕を侵食し続け、ある日、ついに心がぐんにゃりと折れてしまったのだ。辞表を提出してからも、一か月ほど、職場に行かなければならず、その間も上司の放出する酸に浸された。
「根性がないね」「そんなんじゃ、どこへ行ってもやって行けやしないよ」「仕事を甘く見すぎだよ」「嫌だったら辞めるだなんて、お気楽でいいな」と薄い笑いを口元にたたえながら、そういう類のことを幾度も言われた。
耳にはどうして蓋がないのだろう、とぼんやりと思った。
 そうして、三年間務めた仕事を辞めた。二週間は家に籠り、どこにも行かず、次の仕事も探さない、自分自身への休暇としよう。そう思い定めて、スーパーへ出かける以外はずっと家にいた。今まで積み上げられた疲労のせいだろうか、あるいは季節の変わり目だったからかもしれないが発熱した。
臥せってしまったら、途端に何もかもが億劫に感じられた。冷蔵庫にスポーツドリンクはあるし、カップラーメンなどの買い置きも十分にある。
このまま眠っていたら熱が下がるような気はするのだけれど、ふと、もう良いのではないかとも思う時がある。都会で一人暮らし、恋人もいない。仕事を辞めたから、言葉を交わす相手もいない。こんな風に弱った時に助けてほしいと言える人も思い浮かばず、会いたいと思う友人も皆無である。
だから、という訳でもないのだが、このまま命を落とすのなら、それもまた仕方がないような気がするのだ。積極的に、人生を終えたいと思うことはない。かと言って、生きていたいと強く念じるだけの欲求も希望もない。これから先の展望も持ち合わせていない。
ここは終焉の地。

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