小説

『長靴にはいった猫』洗い熊Q(『吾輩は猫である』)

 あの子と衝動買いした一つのロングブーツ。
 ニーハイよりのブラウンの革製。ちょっとカントリーぽいデザインだけど、厚底で野暮ったくない印象が見て気に入った。
 それを履くと自信が湧くというか、自分が少しだけ大きくなった錯覚があった。だからそれを手に入れてから、何かって時はそのブーツを選んでいた。
 歩きづらくても、ちょっと季節外れでも、そのブーツを履く。
 今考えると可笑しいくらいそのブーツが私の中心だった。着る服だって持つ物だって、自分の振る舞いさえもブーツに合わせていたかも知れない。
 ホントに可笑しい。何やってるんだよとその時に思えなかったのが更に可笑しい。本当にそれに縋っていたんだ。
 そんな生活の中、あの子が家に来た。本当に愛情があるのかと疑うニャー助なんて名前なんて付けて。あの幼い愛くるしさだけ求め連れて来たかも。それにも私は縋っていたかも知れない。
 でもそれも時間が過ぎる度に薄れて、悪い言い方だけど飽きてくるのも当たり前だった。
 またあのブーツを履いて、そうじゃないと私じゃないと信じて飛び出して行って、あの子を置き去りにして来た。
 そんなのがまた始まって暫く経った或る日、予定をど忘れして慌てて仕度をして出掛けようと玄関に向かった時だ。
 あの子がブーツに入り込んで顔だけ出しているのだ。
 最初見た時は正直笑えなかった。ルーティーンの様にあのブーツを履くのが考えなくても決まっていたのに、それが出来ないから頭が真っ白になった。それだったらあの子を引っ張り出せば良かったのに。
 ちょっと惚けた感じでこっちに回したあの子の顔。
 それを見て少し吹いてしまった。それで許せた。もう瞬間にブーツを履くのを諦められた。
 入ったままのあの子の頭を撫でて、目に付いた別の靴を履いて私は慌てて出て行った。
 急いで向かう最中、何であの子がブーツに入った事より何時もと違う靴を履いて出た事が新鮮に感じられた。
 何かが変わる。そう思えた。そう信じて出掛けていた日々が、今日こそは変わると期待が上がっている自分がいた。
 でも最悪の日になった。もう思い出したくない位、色んな失敗をした。思い通りにならなかった。あんまりにも上手く行かず、むしゃくしゃして思わず投げたのがスマホであっと言った時にはそれは川の中にボチャンと落ちていた。
 もう自己嫌悪の嵐。顔を上げれないくらい。
 何でこうなるのと考える度に、あのブーツを履いて来れなかったのが始まりに思えてしょうがなくなっていた。
 自分の家に着いて。重い扉を身体全体で押し開けて。吐きそびれた溜息がただいまの挨拶になった。
 そこにあの子がいた。少し首傾げに佇むあの子が。
 その姿が最悪の日の始まりの元凶なんてとても思えなかった。
 そうだ、悪いのはこの子じゃない。悪いのは私なんだ。何かちょっと上手くいかないと直ぐ運命の悪戯なんて都合良く他のせいにして。
 そうなんだよ、最悪の日だって思い始めたのが最悪だったんだ。あのブーツを履かなかった時は新鮮だってちょっと感じた癖に。
 私はこの子を何も言わず抱きしめた。めい一杯、たくさん、たくさん。熱いあの子の身体を頬に感じて、私の目元も急に熱くなった感じがしていた。
 その日を境に、あの子は私が出掛ける素振りを見せるとブーツに入ってお見送りをする様に。
 だからその日から私はあのブーツを履かなくなった。

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