小説

『花咲兄さん』横山晴香(『はなさかじいさん』)

 至極平易な名前である。

 散歩を始めた頃、シロが何か不思議な能力を持っていることが分かった。道を散歩していたら、突然リードを張って駆けだしたかと思うと、自販機の下だとか側溝をしきりに気にして吠えるのだった。公園の土を掘り始めることもあった。
 見てみると、そこには一円とか十円とかの硬貨が転がっていて、シロは嬉しそうにこちらを見上げていた。
 最初の内は手を付けることは無かったが、どうやら毎回そうなので、シロからのささやかな贈り物と考えて、貰っておくようになった。
 ただ、いつだったか、妻が呆然とした顔で戻ってきて、「一万円札が何十枚も埋まってた」と言った時には私も驚いて、得意げな顔をしているシロを見たものだ。警察に届け出た後、受け取り手が現れず、持ち主不明になったそのお金をうっかり貰い忘れて、妻は丸一か月ほど後悔していた。
 理由はよくわからないが、お金を察知して私たちに知らせてくれているようだった。警察犬などもいるのだから、匂いか何かがするのだろうか。
 テレビ番組で、『スゴい能力を持った犬』といった特集をやっているのを見て、妻が「うちのシロのほうがすごいよね」と歯を磨きながらつぶやいたのを覚えている。面倒なことになるのは確実だったので、こういった番組は勿論、近所や、シロを可愛がり触ってくる隣の老夫婦にも、シロの能力は隠していた。
「えらいなあ」と言ってシロを撫でまわすと、シロは気持ちよさそうに目を閉じて、されるままでいるのだった。
 本当にシロは可愛かった。

 ある休日、私が妻と一緒にシロを散歩させていると、シロが突然駆けだした。妻との雑談に気を取られていた私の手からはリードの持ち手が抜けてしまい、シロはそれを勢いよく引きずりながら走っていった。
 私たちは慌てて後を追いかけた。シロが真っ直ぐに向かっていったのは、車の行き交う車道だった。名前を叫んでもシロは止まらない。
 そして、周りを見ることなく、身体を躍動させて車道に飛び込んだ。
 私たちのすぐ前を、いつものように目を輝かせて走るシロに、私たちの手が届くことは無かった。
 すぐに病院に連れて行ったが、シロは二度と目を開けなかった。
 私は、手を放してしまった自分を責めた。私がリードをしっかりと握っていれば良かったんだ、と漏らすと妻は、誰も悪くないから、と言いながら頭を振って涙を流していた。
 悲しみと後悔とで、私は風呂の湯に顔をうずめて泣いた。
 茶毘に付した後、家に帰ってきた骨を庭に埋めた。リビングに置かれた空のケージと、余ったドッグフードが寂しかった。
 私は、妻と話し合って、シロの墓の傍らにソヨゴの木を埋めた。シロの能力にちなんだ花言葉で決めた木だった。
 ソヨゴの木は成長が遅いと聞いていたが、短い年月で、かなりの速度で大きくなっていった。妻は「シロの力かな」と少し微笑んで言った。シロが亡くなってから数年経った頃には、木は庭にしっかり根付いて、小ぶりながら、だいぶ太くなっていた。

 ある日、夢にシロが現れた。
 私が夢の中でソヨゴの木を見上げていると、シロが傍らに佇んでいたのである。やけに明るく眩しい庭で、シロは私に、ソヨゴの木で櫛を作るように云った。私は、ソヨゴの木は櫛に使われているとネットで見たことと、妻がくせ毛で悩んでいることを思い出した。何故だろうかと思ったが、ソヨゴを植えたのは他でもなくシロのためであるから、私は「分かった」と返事をした。シロは嬉しそうな顔をした。それを見て私も嬉しくなった。

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