節子は紅茶を楽しみにしていた。ところが目の前のコースターに置かれたのはペットボトルの炭酸水。しかも常温。
「やっぱ、これで我慢して」
瀬川が節子の目を見て笑ったので、節子は炭酸水を見つめてハハハと愛想笑いを返した。
「ちょっと来て」
まだボトルのフタすら開けていないのに、瀬川は節子の手を引いて和室に向かう。女なら誰もが仕事にかこつけたセクハラを疑うところ。しかし小五のときに男子に叩かれて以来、男に触れられたことのない節子は放心し、まばたきを忘れ、目が乾いた。
和室には介護ベッドがあり、枯れ木のような年寄りが横たわっている。ベッド脚の食い込んだ畳が、介護の時間を物語る。
「母さん、ポスターケース取って来るね」
「うう」
瀬川の母親は声にならない声で、イエスかノーか分からない返事をした。
「気を付けて、だって」
瀬川が通訳した。
「そんなこと言いました?」
と、節子は半笑い。
「じゃ、原さん、留守番頼んだ」
「井原ですし、介護経験ないですし」
「今来たばっかなんだから、ゆっくりしてて」
「会話が成立してませんけど……」
瀬川はお構いなし、ジャージからジャージに着替えて出て行った。
いきなり介護という社会問題をぶつけられてうろたえたものの、特にやることのない節子は、ただただ瀬川の母親を眺めていた。
「うう」
瀬川の母親が何かを訴えている。
「何でしょう?」
「うう」
「えっと……」
「うう」
「分かりました」
何も分かっちゃいないが、とりあえず周囲を見回す。するとベッドの横っちょにある台の上で、年季の入ったラジオがぽつねんと黙り込んでいる。これかな、なんて思ってあれやこれやいじくったが、うんともすんとも言わない。ラジオの発する熱が壊れたてホヤホヤだとうことを伝えている。
「うう」
瀬川の母親が催促する。節子はスマホアプリを立ち上げてラジオを流す。
「うう」
先の「うう」より不満そうな「うう」だったので、チューニングを変えた。
「うう」
今度は満足そうな「うう」だったけれど、チューニングを変えてみる。
「うう」
不満そうな「うう」なので、チューニングを戻した。
今度は「うう」とは言わずに咳込み始めた。
「大丈夫ですか?」
と言ったところで、大丈夫なわけがない。咳はさらに酷くなる。
「瀬川さーん」
節子は顔を近づけて名前を呼び続けた。