小説

『シコメとネグセ』永佑輔(『八百屋お七』井原西鶴『破戒』島崎藤村)

ま、デザイナーというぐらいだからこのオフィスの近辺か、せいぜい青山あたりだろうと、節子はたかをくくった。
 千奈美が鉄槌を下す。

「瀬川さんち、練馬」

大根で有名な、練馬。ほぼ埼玉の、練馬。節子のみならず、新宿以南から湘南の間に住まう者なら誰しも池袋に〈見えざる峠〉の存在を感じているはず。しかし命じられたからには行く他ない。
ケホ。千奈美の咳を背に感じながら、節子は東銀座の外れにあるオフィスを後にする。ビルの林立する駅でいつもの電車に乗り、しばらくして久々の駅で降り、少し歩いて初めての路線に乗ると、オフィスを出て三十分だというのにビルは激減。どころか、所々に畑が見える。
 着いた。
新しくも古くもないたたずまいの一軒家。
呼び鈴を押す。誰も出て来ない。
 も一度押す。誰も出て来ないが、気配はある。
 押す。慌ただしい足音が近づき、玄関が開く。
 寝ぐせ頭に無精ひげ、パジャマ兼部屋着と思しきジャージを着た素足の瀬川がひょいと顔を出す。
「原節子さん?」
「い! 原節子です、井原節子」
「原節子って聞いたけど?」
 節子は心の中で千奈美を呪った。
「遠路はるばるありがとう。お茶でも飲んでって」
「その前にこれを……」
 節子はポスターケースを差し出そうとして、血の気が引いた。畑に気を取られて電車の中に忘れてしまっていた。
「大丈夫。鉄道会社から電話があったから」
 瀬川曰く、幾度となく電車内にポスターケースを忘れたことがあるため、今後ポスターケースの忘れ物があった際はまずは瀬川に一報を寄こすよう鉄道会社と約束をしている、とのこと。節子は胸をなでおろした。

 玄関からダイニングキッチンのソファまで、節子は丁寧に案内された。整理整頓こそされていないが埃っぽくもなく足もベタ付かずザラ付かず、この家の清潔は保たれているようだ。
「コーヒー? 紅茶?」
「コーヒー苦手なんです」
「あったかいの? 冷たいの?」
 本当は迷っていなかったが、節子は考えるフリをして、
「どちらでも構いません」

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