小説

『書に満てよ』村崎みどり(『文字禍』)

 誰何する声も喉に貼りついている。
 こんなときに限って、今まで聞いてきた恐ろしい怪談話が記憶を横切るものだ。

 なに、ねずみの仕業かもしれないし、やっぱりただの気のせいかもしれないじゃないか。
 ひと呼吸吐いてから、手にしたランタンで影が横切った先を照らす。

 そこには図書館に並べたはずの、柿白家の古びた書物が二冊、置いてあった。

 遊び紙の質感も、一度はめくっているはずなので、指に覚えている。ずいぶんと丈夫そうな和紙だ。寄贈印を確かめると、ちゃんと捺されている。

 そう、――並べたはずだ。この手で。
この本はいま、図書館の一番目立つ棚に挿しこまれていなければならない。恐々としてはいたが、他に知るものもなし。浮いた冷や汗は、すぐに乾いた。
 不可思議なできごとに気は動転していた。しかし、本には何が書かれているのか、そしてなぜ、再びわたしの目の前に現れたものか、好奇心には勝てなかった。

 ぱらぱらとめくると、墨で描かれた動物の絵がまず目に入る。
 子どもの悪戯描きのように見えなくもない。
 しかし、気になるのは、その動物の絵のうえに赤い墨色で何かが添えられているのだ。何を意味するのかがわからない、波線と四角と棒。
 その組み合わせが絵にすべてつけられている。――そう、まるで“名前のように”

 
 絵に添えられた文を読めば、この内容は、文字の霊について書かれているらしいと知れた。

『むかし、むかしあるところに――

 勇敢なものが多く住む、武力に長けた国があった。
 だが、隣の国を奪ったとき、王妃と共にたくさんの歴史が書かれた書物が発見された。王はこの王妃を娶ると同時に、その書物に書かれていた歴史書に触れた。

 王は毎夜のごと書物を読み漁り、終いには宮殿から出て来なくなった。
 日焼けしていた肌も真っ白になり、一年を通して本を読み続けた結果、腰が悪くなり、ひとりでは立てぬほどにまで衰えた。

 すべての歴史書を読み終わるころには、王の髪はすべて抜け落ちていた。
 だが、反対に王妃の姿は嫁ぐ前と何ら変わらない。瞳も輝き、肌もつやつやとして美しさを増していた。ふっくりとした頬とくちびるが、なだらかな弧を描いて、紅を差さずともうっすら浮かんだ桃色が花ひらくようだった。ひとたび微笑めば、花芙蓉のごと。香り立つ麗しさだったという。

 王は明日にも死を予見されるほど老いさらばえていたにも関わらず、皺だらけのその顔は幸福に充ち満ちていた。王妃もまた深く、前よりも王を愛していた』

 
 読もうと思えば、それなりの分量があるようだ。わたしを脅かした音の正体など、そのときにはすっかり忘れてしまっていた。
 そして、深夜にも関わらず、本を片手に珈琲を淹れた。傍から見れば、まさに歴史書に夢中になる王の姿と重なるのだろうが、もともと本の虫だから、次の日のことを考えずに読みたくてたまらなかった。その先を、その続きを。
 古い和紙の質感。少しめくる指に独特のひっかかりを覚える。頁を繰るごとに、よく紙に馴染んだ墨の香りがした。

『それから――

 死ぬ直前まで、王は国中の歴史家を集め、自らの国の歴史と、その身に起こったできごとをしたためさせた。老いた学者はこのできごとを畏れ、王とその王妃に恐る恐る進言した。
「陛下。文字に興されなかったできごとは、いかがいたしますか。
 王妃の国において、書き留められなかったことは正史とは成り得なかったのです。かの国において、その王はどうなったか、誰も正しいことは知り得ぬはず。

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