小説

『書に満てよ』村崎みどり(『文字禍』)

 これを心優しい気遣いに思え、文香さんにとても好印象をもった。屋敷に閉じこもっているよりも見聞を広めてほしいとは……、まるで自分の子どもを旅立たせる母親じゃないか。

 
 この町に寺はなく、百を数える石階段を登った先に神社があった。
過去に大火で類焼したが、柿白家の尽力あって再建されたそうだ。秋には大祭があり、老いも若きも、男も女も百の苦労を踏み越えて祭りを楽しむ。
 鬼灯《ほうずき》のような提灯が吊るされ、緋色の長袴を着た巫女さんたちが菊の冠をつけ、参拝客に対応している。菊冠がきらきらと秋の日を照り返していた。
 晴天。ハレの日と呼ぶに相応しかろう。

 巫女神楽というものなのだろうか。
 祭りの最中に奉納舞があった。舞手の中には、今年、柿白家の文香《ふみか》さんの姿もある。

 神楽の滔々とした流れに身をゆだねて、千早の白袖がふくらみ、なびく。
 神事には詳しくないのだが、大人しく見える少女にしては、振りも大きく、他の舞手らと比べても洗練された所作に見えた。まるで、舞いなれているかのような。
 ツ、と進む爪先には音がない。滑るような舞は馥郁たる花の似姿だった。

 不意に曲調が転じ、赤い面をつけた大男が乱入する。
 交互に足を踏み鳴らし、大股にトン、トン、トンと拍子木に合わせ、文香さんへと近づいていく。

「山の神が降りてきた」

 観衆の誰かが言った。
祭りの賑わいは凪いでおり、神楽囃子だけが空を震わせていることに、わたしはようやく気づいた。背の丸まった老婆が手と手を合わせ、ぶつぶつと何かを唱えている。

 キン――……
 澄んだ金属音が響き渡り、減衰する。
 いつの間にか文香さんの手には榊が握られ、山の神と対峙するごとに、まるで剣戟のような音が場を裂いていくのだ。

 そんなことはあり得るはずもない。山の神も巫女である文香さんも手に刃でも持たぬ限りは。

 わたしは不思議と人と人ならざるものの“さかいめ”を見た心地だった。地に留め穿たれた足を何とか引き剥がし、その場を去った。
 ざわざわと背中の産毛が逆立っている。
 何を見たのか、わたしは。
 あの赤い面の下には、炯々とした混沌でもあったのだろうか。……いや、考えまい。

 
 その夜のことだ。

 未明の、明けやらぬ夜の片隅に、こりこりと何かを噛む音がする。
 ねずみでも出て、借り住まいにこんもりと積み上げている本でも齧られたらまずいと思い、わたしは跳び起きた。
 電池式のランタンはすぐ手許にあり、ぱちりとスイッチを押せば、小さいながらも灯りが点く。

 小さな影が、うず高く積みあがった本の影にさっと隠れた……気がしたのだ。
 こわごわと立ち上がり、恐る恐る覗き込む。しかし、何も、誰もいない。やはり、気のせいだったかと布団に戻ろうとした刹那、また黒々とした影が目の前を横切った。

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