小説

『踏んだペンギンは誰』白石睦月(『パンをふんだ娘』)

 ハッと思い出した。九歳の夏休み、どうしても水族館に行ってみたくて、ハハにせがんで連れてきてもらった。入場料は大人二千八百円、子供千五百円。館内レストランも値段が高かった。帰りの電車賃が足りなくなるので、お土産は買って貰えなかった。最寄り駅までのバスを待っている間、土産袋をたくさん提げた家族連れは、決まってマイカーで帰っていった。ペンギンのぬいぐるみが欲しかった。でも二千円もした。今ならたったの二千円。
 私はハハを見た。初めて渡されたのが、あのスカイブルーのペンギンだ。図書館で借りた本を参考にして作った物。編み目はガタガタ、翼は不揃い、表情も全然可愛くない。土産物売場のペンギンの完璧な愛らしさをしっかり憶えていた私は、こんなのいらないと叫んだ。施設に預けられたのはそれから半年ほど後だ。いらないと言ったのに、ママによると、私は不細工なペンギンを抱いていたそうだ。
 ハハも私を見た。三羽のペンギンがハリボテの岩からプールに飛びこんだ。新入りを検分するように周りを泳ぎ回った。自分たちの仲間だと理解すると、またハリボテに戻って暇潰しのように人間に目をやった。私も水面に浮かんだまま見た。パパとママがいた。ピアスの男もいた。大学の友だちもいた。幸子でも美咲でもない名で呼ぶ男たちもいた。視界には嫌でもスカイブルーが入りこむ。プールの壁と底がどこまでもスカイブルーだからだ。なぜこの色が嫌いなのかわかった。そしてこの色というより、私は自分が嫌いなのだ。
 ハハ以外いつの間にかいなくなっていた。イルカショーでも観にいったのだろう。イルカの方が華やかで美しい。私にはもう何もない。改めてスカイブルーのペンギンを見た。それは美しかった。不恰好で古ぼけているのに、どんなものよりも美しかった。
 岩の上が騒がしくなった。係の人間がバケツいっぱいの鯵を運んできたせいだった。水から出ない私を怪訝そうに見て、一尾を投げて寄こしてきた。生臭いはずなのに、サツマイモのモンブランの味がした。
 ガラスの方を振り返るのが怖かった。おかあさん、と誰かが言った。

1 2 3 4