小説

『踏んだペンギンは誰』白石睦月(『パンをふんだ娘』)

 栓を抜いて新しくお湯をためる。憂鬱な気分を払拭しようと、薔薇の花弁と精油の入浴剤を惜しみなく使った。
 生粋のお金持ちは奇特というかお人好しというか、私を手放した実母に今でも季節ごとの贈り物を欠かさない。幸子に巡り合えたのはおかあさまが産んで下さったから、というのがママの口癖だ。
 でも九歳までの生活は惨めさを極めていた。実母は借金を抱えていた。夫がギャンブル狂で、パチンコで大損した真冬の夜、路上で酔い潰れて逝った。死んでも借金はあちこちに残っていて、朝から夜までパートを掛け持ちして返済するしかなかった。私は小学校に上がる手前だった。
 毎日の食事は白米に味噌汁。それにひじきや切干大根の煮物がついた。水で戻したら十倍に膨らむので大量に作って一週間は食べた。カレーの日は嬉しかった。衣類は知人からの貰い物が基本。ランドセルもお下がり。母は自分で散髪していた。当然私も切られた。少ない手持ちの中で一番マシな服を着てきても参観日は恥ずかしかった。流行りの漫画もゲームもクラスの話題についていけなかった。友だちの家庭が羨ましかった。今思えばどこも平凡な生活だったけど、眩しくて憎らしかった。働きづめの母は結局体を壊し、私を施設に預けた。しかしお陰で今の環境がある。

 翌朝、本当の誕生日にパパから贈られたフェラガモのワンピースで出かけた。土曜日の代官山をピンヒールで闊歩する。渋谷が近いから若者が多く、全身全霊でオシャレしてきましたという感じの男女とすれ違う。でも私が最も洗練されている。男が見惚れるのはもちろん女の子だって振り返る。百七十に迫る背丈は八頭身で、アッシュ系で染めた艶々ロングヘアは緩やかに波打ち、色素の薄い肌と瞳の色だけでも目立つのに私は美女なのだ。絶世の美女。そう評したのは、何人目の芸能事務所のスカウトマンだったろう。芸能人になるなんて晒し者になるようなもの。御免だ。でも大学時代の輝かしい思い出になるかなと、たまにモデルの仕事は引き受けている。
 自宅にタクシーを呼べばラクなのに電車を乗り継ぐ。ああ、視線が気持ちいい。羨望、嫉妬、憧憬、憎悪、感服……正負はどうでもいい。完璧な美が周囲の人間の感情を揺さぶるのが愉快で仕方ない。でも悦に入っていられるのも時間の問題。私は降りたくもない駅で下車した。徒歩二十分もかけ、木造二階建てのボロアパートに辿りついた。タクシーを使わないのは、こんなところの住民と関わりがあると、運転手にさえ知られたくないというのも理由だ。
「幸子、いらっしゃい」
 チャイムを鳴らすと、すぐ扉は開いた。還暦間近には合わない化粧、流行遅れの服、飾らない方がマシのネイル。全身から恥ずかしいほどハハはみみっちさを撒き散らしている。私は早々に帰りたくなった。いつ来ても部屋はへんな臭いがする。思い出したくない記憶をほじくり返すような。
「これ、ママからです」
「まあ、いつもご丁寧に」
「アイスがあるので、冷凍庫へ入れてください」
「ありがとう。お礼をお伝えしてね。ああ、冷たいものを持ってくるわね。外は暑かったでしょ。コーヒー? 紅茶?」
 ハハは1DKの間取りの中で忙しく手を動かし始めた。外が暑いといっても室内もそう変わらない。黄ばんだエアコンは効きが悪いし黴臭い。座布団はぺたんこで、生乾きみたいに素足にくっつく。ワンピースで来るんじゃなかったと心の中で舌打ちした時、アイスコーヒーが運ばれてきた。
「ケーキもあるの。モンブラン、好きよね」

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