小説

『憧憬という名の香り』裏木戸夕暮(『蒲団』)

 赤ん坊に乳を含ませていた妻が、慌てて胸元を掻き寄せた。
「ああごめん。向こうに行こうか」
「いいの。もう十分飲んだわ」
 内気な妻は、夫である私の前でも授乳する姿を恥じらった。家で仕事をしていた私が部屋を出たのに気付いてなかったようだ。
「よーしよし、お腹いっぱいになったか?良かったなぁ」
 妻の背後から子どもの顔を覗き込む。柔らかな頬が桃のようだ。その時、
(ああ、これは)
 一瞬私は、遠い世界を見る目をしたのに違いない。
「あなた、どうしたの?」
 妻が心配そうに私を見る。
「何でもない」
 私は仕事を続けると言って部屋へ戻った。頭の中で大きな積み木が組み立てられるような音がした。
「そうか、そうだったのか・・・」
 一人呟く。
 それまで気づかなかった。初めて彼女と路上で肩が触れた時、初めて彼女と共に寝た時、初めて見た彼女の授乳姿。彼女からはあのハンカチの香りがした。いや、恐らくその日私の前で、彼女の香りは完成したのだ。彼女自身と母乳と甘い赤子の体臭が相まって、切なく懐かしいあのハンカチの香りに。
 私は彼女の前に、彼女の香りに恋をした。私は暫し無言のまま椅子に埋もれた。私の、妻への愛は。我が子への愛は・・・いや、裏切りではない。これは運命だ。同じ香りが偶然出会う確率など、星と星が衝突する確率のようなものだ。私と彼女の出会いは、運命だったのだ・・・私はこう思い直した。順番はどうでもいい。私は彼女に恋をした。そして今も愛している。それでいい。

 月日は流れた。仕事は順調で家庭は円満で子どもは健やかに成長して、何の不足も無かった。
 子は成長し、大人は年老いる。離れて暮らす妻の母に死期が迫っていた。私たち三人は会いに行った。義母は病床で娘と孫に別れを告げ、娘婿である私と話がしたいと言った。私と義母は病室で二人きりになった。
 義母は元々目が悪い人ではあったが、病で殆ど視力を失っていた。見えぬ目で私を探した。
「あなたに言っていなかったけれど、これが最後だから。あの子の父親のことで・・・」
 妻からは、父親は死んだと聞いていた。
「私とあの人は、事情があって結婚出来なかったの。あの人は、私と生まれたばかりの娘を置いて海外へ行かされた。もし生きていれば会いに来るかも知れない。その時は会わせてあげて・・・」
 私にはある予感がした。義母は私に一枚の写真を託した。それが、別れとなった。

 いつからか分かっていた。ハンカチの香りがあんなにも慕わしかった訳を。調香師がハンカチの香りを再現出来た訳を。何故なら彼は知っていたから。かつて愛した人の香りを忘れてはいなかったから。
 私は幼い頃父母と別れて施設へ入り、ある夫婦に引き取られた。特別養子縁組を組んだ為、元の両親との縁は絶たれている。何処の誰とも知らない。

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