小説

『憧憬という名の香り』裏木戸夕暮(『蒲団』)

 店主は髪も肌も紙のように白い初老の男だった。私の話を眉ひとつ動かさずに聞いてくれた。
「珍しいお話ではございません。香を焚いた残りの灰をお持ちになって、同じものをというご注文もございました。遺髪をひと房お持ちになって、鬢付油の種類をお尋ねになったこともございました。しかし再現については予め、ご注文には完璧にお応え出来ない場合もある、と申し上げておきます」
「というと」
「まず材料に現在入手出来ない品、輸入が禁止され在庫も無い品が含まれる場合は難しゅうございます。また何より、同じ香りでもお客様が感じる香りと私が感じる香りはどうしても異なってしまう。鼻の違いです。あるお客様で、私の調香にどうしてもご納得されない方がいらっしゃいました。後から分かったのですが、その方は鼻腔に癌を患っておられました。香りとは繊細なものです。甚だ個人的なものでもあります」
「成程・・・」
 私は店主の話を聞いた上で注文することにした。店主は私に酒を飲むか、煙草を嗜むか、仕事は肉体労働か等と訊いた。出身地まで訊かれたのには驚いた。更には
「え、お預けしなくてもいいのですか」
「ええ。一度嗅いだら忘れませんので」
 ハンカチを入れた瓶を預けなくても良いという。これは有り難かった。例え数日でも他人の手に渡したくはなかった。一流の職人とは凄いものだ。私は何か、心の重荷が軽くなった思いで店を後にした。

 やがて店主から連絡が入り、香水を受け取りに行った。素晴らしい出来だった。完璧は難しいと言いながら、芸術的なまでに完璧な再現だった。
 私は約束の倍、いや十倍の報酬を申し出たが店主は断った。
「唯ひとつ、僭越ながら・・この香りは男性がお召しになるには優しすぎます。ビジネスシーンには不向きかと存じます。もし宜しければ、ですが。お客様にはこちらなどいかがでしょう」
 そう言って店主は独自に調香したという別の香水を勧めてきた。それも良かった。大海原へ漕ぎ出す航海士のような力強さを感じた。私は二つの香水を手に入れ、満足して店を後にした。

 それからの私の人生は順風満帆だった。
 中堅の貿易会社に勤めていた私は次々と大口の顧客を得て、やがて友人と一緒に独立して会社を立ち上げた。仕事は面白い位に順調だった。私にはそれが、あの日店主から勧められたもう一つの香水のおかげのような気がした。香りの第一印象、大海原へ漕ぎ出す航海士。仕事で渡航する前にその香りを嗅ぐと、どんな困難も乗り越えられる勇気が湧いた。そして疲れて家に帰れば、ハンカチの優しい香りが癒してくれる。二つの香りは私の御守りになった。
 成功した私には降るように縁談が持ち込まれた。何処ぞのご令嬢だの取引先の親戚だのと煩わしい位だったが、ある日私は、またも運命的な出会いをした。かつてあのハンカチを拾った時のように、路上で偶然肩が触れた女性に恋をした。交際を続け、彼女は私の妻になった。妻はやがて母になった。その時私は、恋に落ちた理由を知った。

「いやだ、いらしたの」

1 2 3 4