小説

『憧憬という名の香り』裏木戸夕暮(『蒲団』)

 かたや妻は義母の言った通り、乳飲み子の頃に父を失い母親と暮らしていた。もしもあの運命の日、何処かで義母がハンカチを一枚風に奪われたとしたら。私の感じた懐かしさは生き別れた母の香りだとしたら、私と妻は・・・これは物語だ。想像に過ぎない。
 こうも考える。私の為に調香された大海原の香り。あれは、若かりし日の父の香りでは無かったか。妻と子を置いて海を渡った男の哀しい香りではなかったか。義母の残した写真の男はあの調香師に余りにも似ている。妻もまた、私に父の面影を重ねたのだろうか。私よりも先に、私の香りを愛したのだろうか。
 私はあの店を訪ねたが閉店していた。物語の真実を知る人は失われてしまった。

「あなた、お茶でもいかが」
 妻がドアをノックする。私はアルバムを閉じて部屋を出る。
 子は成長し手元を離れた。家には妻と私の二人きりだ。
 私は妻の横顔を見る。
「君はあまり白髪が出ないね」
「いやだ、染めてますよ」
「そうか」
 体質だろうか、私の髪は紙のように白くなった。年齢より随分上に見られる。
「そうそう。あの子から手紙が来ました。夏休みには帰るそうですよ」
「そうか。あれは、大学の成績はどうなのかな」
「まあまあだって、自分で言ってましたけどね」
 妻は微笑む。私も、つられて微笑んだ。
「あら。何がおかしいんですか」
「いや・・・」
 これで良かったと、私は幸せを噛み締めている。妻は何も知らない。
「どうだろう。君は・・・私と結婚して幸せだったかね」
 まあ、と妻は驚いた顔をした。
「何ですか急に・・・ええ、幸せですよ」
「本当に?」
「ええ」
「いい歳をして変なことを訊いたかな」
「変でも、ありませんけど」
 妻はくすぐったそうに笑う。私は椅子から腰を上げ、そっと妻を抱き寄せた。
「あら、まあ。あなた」
 私はそのまま動かなかった。甘やかだった妻の香りは歳を経て少し変わった。私の愛する香りに。今の私が愛する今の妻の香りに。
 胸の中で妻が深呼吸をした。私の香りを嗅いでいるのが、分かった。

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