小説

『涙のありか』小山ラム子(『ナイチンゲール』)

 高校二年生の秋。さらに詳しく言えば文化祭の準備が始まった頃。百花のクラスは合唱とクラス制作に力をいれていて、他のクラスの子から「三組気合はいってるね」と言われるほどであった。そんななかで、柚希ちゃんはしょっちゅう合唱練習をさぼっていた。それに厳しめな注意をしたのが当時のクラス委員長の紗良だった。
 どう見ても紗良が正しかったし、他の子も紗良に同調した。しかし百花は柚希ちゃんがいつも一緒にいた子達の中で浮きはじめていたのが気になった。
「柚希ちゃん早く部活行きたいんだよね。教室にいたくないから」
 そう声をかけた百花に柚希ちゃんは目を見開いてからぽろっと涙をこぼした。そしてしばらくしてから話しはじめたのだ。
クラスで一緒にいた子達と話が合わなくなってきて孤独だった。部活でなら仲良しな子がいるから放課後になったらすぐにそっちにいきたかった、と。
『あれね、わたしすごくうれしかったの』
 相変わらず笑顔で話す柚希ちゃんとは反対に百花の胸はちくりと痛む。
 百花が間に入り紗良と柚希ちゃんで話し合いをした結果、練習の強制はやめにした。それから柚希ちゃんは元のグループの子達と仲直りをして練習も参加するようになったが、段々と休み時間に柚希ちゃんを教室で見る時間は減っていった。
「わたし大したことできなかったよ」
 画面を見る。なぜか柚希ちゃんは目を丸くしていた。
「だって結局柚希ちゃんさ、あの後あんまりクラスにいなかったじゃん」
『だってあれはわたしが悪かったから。茜達ともめたのだって茜の好きなアイドルをけなしちゃったからだし、紗良ちゃんとだってわたしが強めに言っちゃったからだし。自業自得だよ。あそこで反省できてよかったって思ってる。思ったらすぐ口に出しちゃうのわたしの悪い癖だった。でもさ、それって百花ちゃんが私の気持ちを聞いてくれたからだよ。そうじゃなきゃ不貞腐れるだけだったと思う』
 柚希ちゃんがそこで一呼吸をおいた。
『百花ちゃんみたいになりたいって思った』
 そのとき突然。百花の喉が「ひぐっ」と爆発を起こした。
「あ、ちょっ、ごめっなんか急にお腹痛い!」
 柚希ちゃんの返事も聞かずに立ち上がり廊下にでる。そのままうずくまり額を床に押し付けた。
 唐突に気がついたのだ。自分の一番の願いに。
 あの頃の自分は純粋に人を信じていた。
 仕事だって当初はやる気にみなぎっていたはずだ。雑用は進んでこなし、手伝ってと言われたら快く引き受けて、話を聞いてと頼まれたら愚痴に付き合って。
 しかし百花は変わった。やるべき仕事を押し付けさぼろうとする上司。問題から目を背け、百花を不満のはけ口にする同僚。見てみぬ振りをする周囲。そんな人達に気づいてしまった。
 百花は周囲に自ら働きかけなくなった。最低限嫌われないように笑顔を貼り付けながら。問題ごとは抱えなくなった。それなのに心は停止しているようだった。だってこんなのまるでアンドロイドではないか。
 百花が職場に行きたくなくなった理由。こんな自分でいるのが嫌だったのだ。
 しばらくしてから立ち上がって頭を振る。このままこうしているわけにもいかない。
「ごめんね。もう大丈夫」
 部屋に戻り画面を見るが、柚希ちゃんもいなくなっていた。少し経ってからあわてた様子で柚希ちゃんが顔をのぞかせた。
『あ、大丈夫⁉』
「うん、急にごめん」
『ううん。それがこっちも泣き止まなくてヘルプがでてるんだ。今日はもう切るね』
「あ、うん! 分かった!」
『また電話していい?』
「もちろん! あの、ありがとね」
『こっちこそ!』
 手を振りながら退出ボタンを押してそのまま床に寝っ転がる。
 これから色々と考える必要がありそうだ。自分の居場所。一緒にいる人。相手と心を通い合わせる喜び。聞こえてきた心の叫び。
 自分の何気ない一言に涙を流してくれた子がいた。今でもそれを宝物のように大事にしてくれている子が。
 起き上がって冷蔵庫に向かう。
 とりあえず杏仁豆腐を食べよう。今度お店に行ったときのお礼を考えながら。それから図書館に行って、もし会えたら新田さんに声をかけて感想を伝えてみよう。人と交流する愛しさを思い出そう。
 テーブルに戻り、杏仁豆腐をすくって口にいれ目を閉じる。おいしい。じんわりと涙がにじんでいた。

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