小説

『涙のありか』小山ラム子(『ナイチンゲール』)

「たっだいまー!」
 誰もいない部屋に向けて「ただいま」と言うのは最初の頃だけだった。だけど今日の百花は一味ちがう。机の横に帰り道で買ってきたオードブルやワインが入った袋を置く。手元が空いたところで両手を上にあげて万歳のポーズをした。
「やったー……」
 お腹の底からでたはずの言葉だったが、気持ちの割に声量がない。さっきの「ただいま」でエネルギーを使い果たしてしまったらしい。
 気を取り直してコートを脱いでハンガーラックにかけてから洗面所に行く。手洗いうがいをきっちりしてから顔をあげて鏡をじっと見つめてみる。
 今日は金曜日。青いクマは月曜日から段々と濃くなって、土日に少しよくなったと思ったところでまたそこから疲れが染み込んでいく。つまり年々このクマは濃くなっているのだ。ぽとりぽとりと一滴ずつ。今年で五年の蓄積だ。
 だけどこれからはちょっとずつ抜けてくるかもしれない。
 来週から百花の会社でテレワークが始まる。
「いただきまーす」
 手をあわせて買ってきた包みを開く。偶に休日のランチで行っていた中華料理店でテイクアウトをしてきた。麻婆豆腐、エビチリ、小籠包等々王道がつまった贅沢ディナーだ。このお店は会社からの帰り道にあるわけではなく、いつかテイクアウトしようと思って先延ばしにしていたのだが、もうそれは今日しかないと思った。
 お店の奥さんは「久しぶり!」と声をかけてくれたうえ「これサービス」と杏仁豆腐までつけてくれた。元々買おうと思っていたのだが、お言葉に甘えて頂いた。
 麻婆豆腐を口にいれてゆっくりと咀嚼する。山椒がきいた舌がしびれる辛さの麻婆豆腐は百花の一番のお気に入りである。
 百花は夕食の時間にテレビをつける日とつけない日がある。今日はつけない日だ。無音で自分の心とひたすら向き合いたい。
 このご時世、百花の会社でも積極的にテレワークが推進された。といっても一朝一夕でできるものではなく、一年前から徐々に移行が始まった。
 事務所の会計システムに個人のパソコンからアクセスできるよう環境を整えたり、職員の進捗状況を共有するためにクラウドサービスを取り入れたり、仕事の配分を考え直したりとなかなかに目まぐるしい日々であった。
 そんな忙しい日々も、今までの生活が変わるための準備なんだと考えれば乗り切れた。
テレワークが始まるとはいっても、それは交代制でありまだまだ試行段階である。それでもうれしい。週二日会社に行かなくてよくなるのなら万々歳だ。
 カメラで職員を監視する、なんて恐ろしい事態にならなかったのもうれしいポイントだ。集中してその日にやるべき仕事を終えてしまえば後は何をやっても構わない。例えば読書の時間が増やせる。

1 2 3 4