小説

『ウラシマ』五条紀夫(『浦島太郎』)

 結果、仮想人類たちの別世界への移民計画が始まることとなった。
 仮想世界では現実の物理法則が忠実に再現されている。つまり、人間を分解して一時的に量子情報に変換することで、現実世界を含む別世界への転送が可能だった。ただし、大規模移民を行なうためには、仮想世界内部にて転送装置を起動させる必要があった。そこで、一部の人間にその役割を与えることにした。
 俺は、選ばれたのだ。転送装置を起動させる人間に。
 転送装置は小さな箱だった。それを仮想世界で開くだけで、周囲の人々と共に新たな世界に運ばれる。新たな世界は、現実世界をコピーした、正しい時間の流れる楽園だ。俺は、快くその使命を引き受けることにした。
 人類救済という大義には興味がなかった。亜矢子を救いたいだけだった。

 + + +

 地面に広がる血で溺れるように、父の姿の男性、いいえ、父は、手を伸ばしたまま動かなくなった。息絶えたのだ。一目でそれが察せられた。
 わたしは、手の中の小さな箱を、ぼんやりと見つめた。
 いつの間にかに近くまで来ていた刑事が、こちらに手を差し出す。箱を寄越せという意思表示だろう。けれど、わたしは首を大きく横に振った。
「わたしは、父の遺志を引き継ぎます……」
 そして、箱の蓋を開けた。辺りは眩い光に包まれた。

 気が付くと、わたしたちは海に投げ出されていた。ふと父の話を思い返す。そうだ、ここは海洋生物の世界をコピーした楽園なのだ。
 視線の先には水平線が広がるばかりで、どこにも、陸地はなかった。

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