小説

『ウラシマ』五条紀夫(『浦島太郎』)

 真実とはいつだって信じ難い物事の連なりだ。そして、どんな尤もらしい仮説もその真実の前では海の泡より儚く消える。それは理と呼んでも良い。長い時間あるいは歴史の中で、何度も繰り返されてきたことだ。何度も繰り返されることだ。ただし、真実が明らかになる瞬間に立ち会える者は、数少ない。
 俺が、その数少ない一人になるとは、思ってもいなかった。
 娘の亜矢子にとっては十五年という長い時間だったかも知れないが、俺にとっては、たった一日の出来事だった。あのとき、旅先の海辺で身体が砕け散ったとき、自分は死んだのだと思った。ところが気が付くと、真っ白な部屋に寝かされていた。見るからに病院ではない。窓も装飾もない上に、身体の下の台はベッドではなく金属製の板だ。加えて、その場にいる人物の姿が奇妙だった。俺を見下ろす人物、その肌は青かった。
 ここはどこだ、と考えた。すると青い人物が口から甲高い音を発した。声とは呼べない、まさしく音。しかしその音は頭の中で言語に変換された。その人物は俺の思考に対して返答していたのだ。ここは現実世界だ、と。
 言葉の意味が分かろうと、やはり状況の理解はできなかった。その気持ちさえも読み取られたのか、すぐに次の返答があった。思考と思考の往復。それは恐ろしく効率が良く、わずか数分で、いや、数秒だったかも知れない、ともかく短いやり取りでもって、あらゆる情報が、頭の中に積み重なっていった。
 俺たちが暮らしていた世界は、仮想世界だった。
 現実世界の人類は俺たちとは異なり、海洋生物から進化していた。ただし、収斂進化だろうか、外見はいわゆる人間に酷似している。知能に至っては、おそらく遥かに発達しているだろう。
 そんな海洋人類が統べる現実世界において、数十年前にある計画が立ち上がった。別種の生物による文化形成の研究を行なうこととなったのだ。そのために高性能シミュレータ、すなわち仮想世界が、作られた。
 仮想世界は、現実世界に比べて五千倍の速さで時間が流れる。つまり現実の一日で仮想では十五年近くが経過する。観察の目的を考えれば妥当な設定だ。海洋人類は常に見ていたのだ、人間の、数万年の歴史を。
 ところがいまになってある問題が浮上した。このままでは仮想世界の科学技術が著しく発展し、人間が、現実へ侵攻してくる恐れがあったのだ。そこで、シミュレータの破棄が決定された。しかし、仮想世界とはいえその中にいる者たちは確かに生きている。それを、幸福も不幸も、死も記録も残らない、完全なる無に還すのは間違っているという意見が挙がった。

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