小説

『ウラシマ』五条紀夫(『浦島太郎』)

 気負ってみたものの、何事もなく、二週間が経過した。
 何事もなくとはいっても、あくまでわたしの周辺に関してであって、世間では大きな事件があった。六日前に大阪中心部にてウラシマが出現、約五万人の人々が消えてしまったのだ。わたしと同様に警察による親族の監視が行なわれていたにもかかわらず、防ぐことができなかったそうだ。
『近頃の頻度を考えると、いつ現れてもおかしくないです』
 イヤホン越しの刑事の声。それは日課となった。さらに彼はこうも言う。
『思想に耳を傾けないでください』
 詳しい話は聞かされていないけれど、おそらく大阪での失敗を踏まえての発言に違いない。いずれにしても、いまのわたしにできることは限られている。日常を送るだけだ。わたしは監視されながらも普段通り仕事をしていた。
 今日も、職場へ向かうために家を出る。
 そうして駅前の広場に着いたとき、目深にキャップを被った不審な男性とすれ違った。瞬間、懐かしい声が耳に届く。
「亜矢子……」
 咄嗟に振り返った。男性もわたしと同じように振り返っていた。
「亜矢子、長いこと一人にしてすまなかった」
 その声は紛れもなく父のものだった。声だけではない。顔も体型も服装も、なにもかもが、消滅してしまったときの父と、まったく同じだった。
 動揺によって全身が硬直する。
 と同時に、異変に気付いたであろう刑事から通信が入る。
『近くのビルまで誘導してください』
 複数名の捜査員がそこに控えているとのことだった。さらに、間もなく応援も到着するそうだ。声色から察するに刑事も動揺している。それでも彼は作戦を成功させようと、立て続けに指示を口にした。落ち着いてください。逃げないでください。そして、思想に耳を傾けないでください。
 言わんとしていることは分かっている。ウラシマは会話の後で箱を開ける。耳を貸さずに惚けた振りをしてビルまで歩くのが正解だ。けれど、
「話を、聞かせて……」
 わたしの口からはそんな言葉が零れ落ちた。刑事に言ったのか、父の姿の男性に言ったのか、自分でも分からなかった。ただ、これだけは明らかだった。わたしは求めていたのだ。苦しみに満ちた十五年という時間、それは仕方のないことだったのだと納得できる慰めが、一言でも良いから、欲しかったのだ。
 刑事は、そんなことは許されない、と言った。
 それに対して男性は、お前を救いに戻ってきたんだ、と言った。
 涙が零れる。その姿を認めた男性は辺りを一瞥し、時間の許す限り話そう、という前振りを口にして、ここに至るまでのことを語り始めた。
「ここは偽りの世界なんだ――――」
 それは、この世界の成り立ちと、ウラシマの正体についての、壮大な、絵空事のような話だった。
 戸惑うわたしを前にして、男性は懐から小さな箱を取り出した。そのとき、乾いた音がいくつも轟いた。捜査員たちが、通行人がいることも構わず、発砲したのだ。銃弾を受けた男性がうつ伏せに倒れ、箱がわたしの足元まで転がる。
 わたしは、無意識のうちに、小さな箱を拾い上げた。
 捜査員たちが駆け寄ってくる中、男性が苦しそうにこちらに手を伸ばして唇を動かす。声は聞こえない。けれど何を言っているのかは読み取れた。
 ハ、コ、ヲ、ア、ケ、ロ。

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