小説

『花田の桜』立田かなこ(『花咲かじいさん』)

 とある山村に、花田という男が越してきた。彼は長年連れ添った妻を亡くしたのをきっかけに、幼き日を過ごした旧家に戻ってきたのだ。
 荷物は引っ越し業者が全て運び入れてくれたようで、手元にあるのは使い古した鞄と、
「ペロ。今日からここが私たちの家だぞ」
 ペロという雑種の犬のみ。彼は見たことのない景色が気になるのか、キョロキョロと辺りを見回しては、ハッハッと舌を出しながら美味い空気を吸う。
 実家を出てからもう何十年とは言え、勝手は知ったもの。ずっと管理されなかったからか廊下がギシギシと鳴るが、住めぬ訳ではない。
 懐かしの生家の中を回っていると、ペロが駆けだした。
 彼は雨戸が開いていた縁側から庭へ飛び降りると、大きな桜の木の前で止まった。尻尾をぶんぶんと振って花田に「こちらへ来い」とでも言いたげに吠える。
「ああ、桜か?」
 花田は縁側に座ってペロに手招きをした。
「懐かしいな、子供の頃はよく登っては怒られていたよ」
 駆け寄ったペロを撫でる花田の目は優しかった。
 ふと、妻が生前に言った事を思い出した。
「とても綺麗ね」
 若い頃、二人で花田の実家に帰省した時にそんな事を言って彼女は微笑んでいた。
「もう、咲かんのか……」
 ここに着く前、噂が好きそうなおばちゃんが「あそこに越してくる人でしょ?」と話してくれた。ここ数年、この桜は枯れかけているのか咲いていないらしい。
「とても綺麗、か……」
 うわごとのように花田がポツリと呟くと、それまで嬉しそうに撫でられていたペロが、花田の手をするりと抜け桜の木の下へ駆け寄り、根元を掘り始めた。
 ペロの、ワン!の一声で我に返った花田は
「これこれ、そこを掘っても何も無いぞ? 」
 と、近くに置いてあったサンダルを突っかける。
 しかし、いくら愛しい主人が己を地面から剥がそうとしても、ペロは断固として掘るのをやめない。
 彼が楽しそうに土を掘る姿を見て花田はハッとした。
「お前、私に『花を咲かせよう』とでも言いたいのか? 」
 そう言うとペロは手を止め、嬉しそうにワン!と吠えた。まるで「そうだよ! 」とでも言っているように。
 それを見た花田は笑った。暇な余生に彩りが生まれて嬉しいような。家族や妻との思い出の花を見られて幸せなような。そんな顔で。
 それからの花田は忙しかった。荷ほどきの合間、ペロの散歩ついでに古本屋で園芸の本を買い漁ったり、最近買い換えて未だ慣れぬスマートフォンで検索をしたり。まるで今までの人生を巻き返すかのように。
 そう。巻き返し。

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