小説

『水仙』風乃絹(『松山鏡伝説』(新潟県))

 数日が過ぎ、京子はある日隣の家を訪れて兄ちゃんを呼び出した。
 「兄ちゃん、頼みがある」
 京子は兄ちゃんの袖を引っ張って歩いた。どのくらい歩いただろうか、京子は足を止めた。二人の前にはあの池があった。兄ちゃんは思わず顔をしかめた。
 「まさか、落とした鏡を取れって言うのか。この池は深いんだ。おっかさんの形見を落としたのは可哀想に思うけれども、それでも無理だ」
 京子は微笑んで首を横に振った。不思議そうな顔をした兄ちゃんの顔を見ながら、京子はそっと指をさした。
 「鏡は、もういいんだ。あの水仙をとってほしいんだ。もともとあの水仙とろうとして、鏡落っことしたんだ。おらの腕だと届かないんだ。兄ちゃんの腕だったら、届くだろ」
 「届くけども」兄ちゃんは首をかしげた。
 「あの水仙取ってどうする」
 「おかあさんに、新しいおっかさんに、あげるんだ。あの水仙はこの村でいちばんきれいな花だ。新しいおっかさんは、最近元気がないから、あの水仙をあげたら元気になる。間違いない。おらずっとそのこと考えてたんだ」
 兄ちゃんは腕を伸ばして、水仙を二本取って渡してくれた。京子は大喜びで家に帰った。家の戸を開けたが誰もいなかったので、裏にまわるとおっかさんが井戸水で大根の土を落としているところだった。
 「おっかさん」
 京子は声をかけた。おっかさんは京子に気づいて顔を上げたが、すぐに目をそらした。京子は心臓が縮むのを感じたが、意を決して後ろ手に隠していた水仙をおっかさんの顔の前に突き出した。おっかさんは手を止めた。
 「兄ちゃんに水仙取ってもらった。おっかさん、夜、泣いてるだろ。だから元気出してほしかったんだ。この辺でいちばんきれいな花なんだ。泣きたいときはこれを見て、もう、泣いちゃだめだ」
 おっかさんは水仙に手を伸ばした。
「見ていたの…」
 そう呟いて京子の顔をしっかり見た。びっくりしたような、怯えたような顔をしていた。京子はおっかさんが水仙をゆっくり握りしめたのを見て、急に恥ずかしくなり走って家に入った。夕飯のあいだ、京子はまだ照れたような気持ちでおっかさんの顔を見られなかった。

 その日は疲れたのか、ぐっすり眠れた。京子は水仙の効果を確認できなかったので、眠りこけてしまったことを悔やみながらもすっきりした気持ちで家の前の土を触っていた。
 「京子」
 急に名前を呼ばれて京子は身を固くした。振り返るとそこにはおっかさんが立っていた。名前を呼ばれたのは初めてで、京子は返事もできずただおっかさんを見つめた。
 「話があります」
 おっかさんはそう言って家に入った。京子は黙ったまま後に続いた。おっかさんは囲炉裏のそばで正座していた。京子もおずおずとその向かい側に座った。おっかさんは緊張した面持ちでそばにあった紙を手に取り、畳の上を滑らせて京子の前に持ってきた。京子が訳が分からないという顔でおっかさんを見ると、おっかさんは手で「ひっくり返して」という仕草をした。京子は分からないままその紙をそっと返した。

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