「またお日さまが昇る前に起きてしまった」
もう何週間もぐっすり眠れていない。今日もまばたきをするように自然と目が開いた。そして目の前に広がる闇を見て、ああまたかと悲しい絶望感に襲われるのだ。原因は分かっている。数週間前のあの日、母の形見の鏡を池に落としてしまった。京子にとって唯一の心の拠り所だった、あの鏡。母がまだ元気だったとき、父が町で買ってきた思い出の鏡。それを自分は深い池の底に沈めてしまった。
ゆっくりと身を起こすと、腕が冷気に触れてひやりとした。手でさすりながら、京子は母のことを考える。溢れ出す涙を必死でこらえる。母は病床で泣きじゃくる京子を見かねて、あの鏡をくれたのだった。優しい声がよみがえる。京子、そんなに泣いてはいけません。ほら、この鏡をご覧。母はもうすぐいなくなるけれど、この鏡をのぞけばいつでも会えますよ。だからそんなに泣かないで。
それから寂しいときはいつも鏡にうつる優しい顔を見て、心をなぐさめてきた。鏡は楕円形で先に柄がついている、小さいながら立派なものだった。紅色に塗られていて、裏には水仙が彫られている。母は花が好きだった。それを知っていた父は町でその鏡を見かけたとき、お金がないのを分かっていながら、どうしても母に贈りたくてその鏡を買ったのだ。
母が亡くなって時が経ち、父は新しい妻を迎えた。初めて新しいお母さんを見たとき、京子は母が戻ってきた、母に似ていると思った。一緒に暮らすうちに勘違いだと思うようになった。新しい母は前の母と違い、とにかく京子に冷たかったのだ。朝、挨拶しても気のない返事しか返ってこない。京子が炊事を手伝おうとすると嫌そうにして目も合わせない。京子は新しい母に好かれたかった。おかあさんと呼び、熱心に話しかけた。山の向こうから来たおかあさんに村を案内したくて散歩に連れ出そうとしたが、握った手を無言ではらわれた。思わず京子はおかあさんの娘です、何かあるなら言ってくださいと顔をのぞきこんだとき、お前の顔なんて見たくもない、どこかに行ってとはっきり言われた。
その言葉を聞いて京子は家を飛び出した。おっとさんとはあんなに楽しそうに話しているのに、自分は嫌われている。胸が張り裂けそうに苦しく、京子は走り続けた。そして息が切れてかがみこんだとき、ふと紅い水仙が目に入った。
見ると小さな池があり、真ん中だけぽっかりと地面が顔を出していた。そこに真っ赤な水仙がふたつみっつ咲いているのだった。鏡の水仙とおんなじだ。手を伸ばしたが、京子の腕ではあと少しのところで届かない。池の淵ぎりぎりまで膝を寄せて、もう一度身を乗り出したとき、池の水面に自分の顔がうつった。「おっかさんだ」京子は思わず声を出していった。おっかさんが一所懸命な顔をして池にうつっていた。気を取られた、そのとき。
細い帯に括り付けていた鏡が鈍い水音を立てて池に落ちた。京子は最初、何が起こったか分からず呆然とした。だんだん事態が呑み込めて、泣き叫んだ。鏡のことだけではない、実母の死、新しい母の態度と言葉、全てが一気に小さな心を揺さぶった。鏡を取り出そうと池に足を突っ込んだとき、誰かがその体を抑えた。