小説

『水仙』風乃絹(『松山鏡伝説』(新潟県))

 「何やってるんだ、危ない」
 誰かはじたばたする京子を池からひきずりあげた。京子は泣きながら怒りのこもった表情でその顔を見上げた。隣の家の兄ちゃんだった。兄ちゃんは「この池は深いんだ、入ったら二度と出てこれないぞ」と言いながら必死に京子を抑えた。京子は諦めず、離せと暴れた。ついに京子の父親がやってきて、二人がかりで家に連れ帰った。おかあさんは険しい顔をしてやはり何の言葉もかけてくれなかった。京子はそのまま布団に寝かされた。

 その日は疲れてそのまま朝まで眠ったが、京子は次の日からろくに眠れなくなった。いつも夜中に目を覚ます。目を閉じて横になり、ただただ鏡やおっかさんのことを考えながら朝を待つ生活が続いた。でも今日はなんとなく、起き上がって座っていた。
 ふと横に目をやると、父が眠る姿が目に入った。そのさらに向こうにおかあさんが寝ている、はずだった。京子はおかあさんがそこにいないことに気がついた。闇に慣れた目で部屋を見回すと、一枚戸を隔てた土間から人の気配がする。京子はぞくっと身を震わせた。誰かがいる。おかあさん?こんな夜中に?恐る恐る、音を立てないように布団をよけた。
 膝をつき、戸の隙間からのぞくと、おかあさんが後ろ向きに腰かけているのが見えた。京子は怖くなった。こんな時間に何をしているのだろう。月光が差すおかあさんの背中から目が離せなくなった。ふと、おかあさんが横を向いた。京子はさっと戸から身を引いた。身構えたが、おかあさんは気づいていないようでしんとした空気は変わらなかった。京子はもう一度のぞいた。そして息をのんだ。おかあさんが泣いている…!
 おかあさんの横顔は涙で濡れていた。京子はしばらくまばたきも忘れてその顔を見つめた。おかあさんは声も出さずに、静かに涙が頬を伝っていた。
 京子は足のしびれも忘れてその姿に見入っていたが、鳥の鳴く声で我に返った。そしてひっそりと布団に戻ったが、頭は冴えていた。京子は大人も泣くことを初めて知った。おかあさんはそのまま、床に戻ってこなかった。やがて父が起きて京子と一緒に土間に出ると、おかあさんは何事もなかったかのように朝ごはんの支度を始めようとしていた。京子はその日じゅう、おかあさんの泣き顔を思い出していた。落とした鏡以外のことをこんなにも考えるのは久しぶりのことだった。
 その日から、京子は夜中に目覚めるとまず起き上がっておかあさんの床を確認するようになった。そしていつもおかあさんはそこにはおらず、土間をのぞくと果たして同じ場所に座り、横を向いたときに少し見える顔は泣いていた。京子は夜も日中も、おかあさんのことが頭から離れなくなった。

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