小説

『花子さんがいた頃』いずさや(『トイレの花子さん』)

 私はよく、トイレで「花子さん」とお喋りをした。
 両親がケンカをしているとき。クラスで陰口を言われているのを聞いてしまったとき。辛くて、どうしたらいいのか分からなくなったときに、私はトイレに逃げた。誰からも見られないし、誰のことも見ないでいられる。
 いても立ってもいられない気持ちがおさまるまで、座り込んで、ときには泣いて、乱れた呼吸を整えて、個室を出る。ものの数分のこと。何かが解決するわけでもないのだけど、逃げ込める場所があるということが、いくらかの安心をくれた。トイレは、私にとってシェルターだった。
 『トイレの花子さん』の都市伝説は、誰もが知っている怪談だ。女子トイレの三番目の個室を三回ノックして、「花子さん遊びましょ」と言うと、誰もいないはずの個室から返事が聞こえる。花子さんが現れた後は、大抵良いことにならないのだけど、私の「花子さん」は、三番目の女子トイレじゃなくても現れてくれて、誰にも話したくないことを話せる、秘密のお喋り相手だった。
「何であんなこと言われなきゃいけないの」
「そうだね」
「誰も私のことなんて見てないんだ」
「そんなことないよ」
「そう思う?」
「きっといつか」
 私の空想は、私に優しくできているから、「花子さん」は私の想像力を超えないのだけど、それでも良かった。「花子さん」と話していると、不思議と自分を励ますような言葉が頭に浮かんだ。
 こんな空想が、世間サマの役に立つこともあった。
 シェルターであり、秘密の友達との密談部屋であるところのトイレは、綺麗な場所にしておきたかった。だから、いつしか家や学校のトイレを掃除する習慣がついた。
 家のトイレを磨くのはもちろんのこと、学校でも紙が減っていたら補充して、掃除用具入れに箒があれば床掃除もした。洗面器に跳ねた水を拭き取ったり、誰かが置いたままにした空の化粧品をゴミ箱に捨てたり。誰もいない時間を見計らって、私はトイレを掃除した。
 学校のトイレには、早朝や夕方に業者さんの清掃が入るのだけど、できるだけ、いつでも綺麗にしておきたかった。私が学校のトイレを掃除していたことは、最後まで誰も知らないままだっただろう。
「いつも綺麗にしてくれてありがとう」
「だって、誰もやらないんだもん」
「いつか、誰かが気付くよ」
「そうかな」
「きっと」
 誰かに知ってもらいたいという気持ちもあったと思う。でも、「花子さん」が喜んでくれるというだけで、私には十分だった。少なくとも、私の存在が誰かのためになっているような気分になれたから。

1 2 3 4 5