小説

『花子さんがいた頃』いずさや(『トイレの花子さん』)

 ところが、高校を卒業して社会人になってから、花子さんとの会話が上手くいかない。花子さんを思い浮かべることが難しい。
 イベント会社、といっても定期で行われる地方の商店街やデパートの催しが主な仕事である小さな会社の、事務方の隅っこで働く私は、正直言って、誰にでもできるような作業しかしていない。高校で、校則通りの真面目な生徒だった私は、友達はいなかったけれど、先生からはわりと気に入られていて、それがなけなしの自尊心を保ってくれていた。
 ところが、働き出してみると、資料の整理や印刷の発注、その他名前のつかない雑務いろいろ、そんなことにすら躓いて、何もできない自分を知った。
 私がいつまでも雑用係なのは、経験不足であるというだけでなく、期待されていなくて、誰の視界にも入っていないからなのだと思う。優等生なんかじゃなくて、決められたルールを破らずにいられるというだけだった。先輩が片手間に投げるような雑務をこなすので精一杯で、気が付いたら一日が終わっている。
 そういえば、コピー機のトナーが切れかかっていたなと思い出して、席を立った。こういうことでしか、私は人の役に立てない。
 コピー室のドアを開けると、ガチャン、と複合機のパネルを閉める音がして、間もなく誰かが出力していたらしい資料が次々に吐き出されていった。
 後輩の桂木さんが、使用済みのトナーを箱に仕舞って【済】の文字を書いていた。
「あの、トナーは……」
 桂木さんが顔を上げた。
「あ、八重島さん。今替えたところです」
 桂木さんは、【済】の字を書く手を止めて、感じの良い笑顔を私に向けた。
 明るい茶の髪に、流行りのメイクをした桂木さんは、地味な人が多い会社の中でよく目立つ。誰とでも感じよく話せて、よく気がつくし、仕事も早い。私のように仕事ができない人に対しても、決して嫌味な態度を見せない。
 彼女が書く、【済】の字がとても美しいことに驚いた。
「すみません……。あの、字が凄く綺麗だね」
「え、ホントですか? ありがとうございます。なんか、字が綺麗な方が賢く見える、とか言って、習字をやらされていたんですよ。そう見えるってだけで、賢くなるわけじゃないってところがポイントです」
 彼女を見ていると、学生時代に決定づけられる「立ち位置」は、一生変わらないものなのだと思わざるをえない。

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