小説

『こころむすび』ヤマベヒロミ(『おむすびころりん』)

「わざわざコンビニで買わなくても、冷蔵庫にビール冷えてるでしょ?それに、せっかく美味しいお米をたくさん送ってもらっているのに…」
 由美は埃を被りはじめた炊飯器を横目に、小さくため息をついた。

 長男として実家の米農家を継ぐか、地元で就職するのが当然と思われていたところを、両親の反対を押し切って東京の大学へ進学した。
 当然、弱音を吐くこともできず、微々たる仕送りとバイトの給料でなんとか凌いだ。それでも母は、米と野菜だけは、充分すぎるほどに定期的に送ってくれた。おかげで、料理の腕前はそこそこ上がり、下宿先の友人たちに料理を振る舞うと喜ばれた。
 そのまま東京で就職し、職場で出会った妙子とその年に結婚した。お世辞にも料理が得意とは言えなかったが、妙子は台所に立つのが好きだった。毎朝、せかせかと台所を立ち回る妙子の背中は、すっかりとその空間に溶け込んでいた。無機質な冷蔵庫も、使い込んだ食器棚も、綺麗に磨き込まれたシンクも、妙子のお気に入りのマグカップも…その全てが、妙子がいてこその光景だった。

 私は今、そんな妙子のいない台所に、足を踏み入れることができないでいる。

「父さん、まだこの弁当箱使ってくれてたんだね」
 由美は、台所の隅にひっそりと置かれた曲げわっぱの弁当箱を手にして呟いた。
「あぁ、10年くらい前だったかな。由美が私の昇進祝いに送ってくれたものだよな。それをもらってからは、ずっと愛用させてもらっているよ。あ…2ヶ月前まではな…」
「母さん、父さんのために毎朝、この弁当箱にお弁当を詰めてくれていたんだね」
由美は、弁当箱をじっと眺めながら続けた。
「この弁当箱ね、結構高かったんだよぉ。父さんたら、いい歳して中学生が持っていくようなプラスチックの四角い弁当箱をずっと使ってたでしょ。母さんが毎朝せっかく作ってくれているのに、なんだか味気ないなぁって。母さんの作った弁当が、もっと特別なものになればいいなって思ったの。そしたら、父さんも仕事の合間に母さんのこと思い出してくれるんじゃないかって。あ、ついでに私のこともね!」
「確かに、その弁当箱を開ける時は、いつもちょっと特別な感じがしたな。蓋を開ける時のスッと木の擦れあう音や、開けると木の香りと一緒にふわっと広がる弁当の匂い。なんか、落ち着くんだよな。何より、母さん特製の特大おむすびとの相性が抜群だった!」
「確かに!何だか昔話に出てきそうなおむすびだったもんね。曲げわっぱの弁当箱にぴったりだね」
 由美は、おもむろに弁当箱の蓋を開け、そっと鼻を近づけた。
「ほんと、いい香り」
「小さい頃、宮城のおばあちゃんがね、教えてくれたの。『おむすび』は、食べる人のことを想ってぎゅっ、ぎゅってむすぶから『おむすび』なんだよって。母さんは、いつも父さんのことを想って、おむすびをむすんでくれてたのかな…」
 由美は声を震わせ、弁当箱を手にしたまま、そっと背を向けた。

 ピロピロ、ピロピロ。
 由美の啜り泣く声をかき消すように、不意に携帯が鳴った。
「はい、もしもし」

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