小説

『こころむすび』ヤマベヒロミ(『おむすびころりん』)

「でも…。あの、良かったらこれ食べてください。焼き立てのメロンパンなんです」
「いえいえ、そんな…」
 と断りつつも、目の前に差し出された紙袋からほんのり漂う甘い香りに、思わず目を細めてしまう。
「ちょうど、ひとつ余分に買ったものですから。ぜひ、食べてください。美味しいですよ!」女性は、まだ温かいその袋をひとつ、私に手渡した。
「では、遠慮なく。ありがとうございます」
 女性はもう一度軽く頭を下げてから、男の子の手を引いて、去っていった。

 ふと足元を見ると、先ほど買ったばかりのツナマヨおにぎりが、砂まみれで転がっている。妙子のいない悲しみからの小さな一歩は、あっけなく挫かれた。

 不意に「おむすびころりん、すっとんとん。もう1つ食べたいすっとんとん」と、小さい頃に母が読んでくれた昔話のワンフレーズが頭をよぎった。
 母はいつも私と弟が布団に入ると、絵本を読み聞かせてくれた。薄暗いひんやりとした布団の中、優しい母の声はとても心地良かった。ところがある日、いつもの様に優しい声で「おむすびころりん」を読んでくれていた時のこと。
 「おむすびころりん、すっとんとん!もう1つ食べたいすっとんとーん!」
 母が、急にすっとんきょうな声でリズム良く歌い出したものだから、弟と2人で吹き出してしまい、すっかり目が覚めてしまった。
 「ごめんごめん!母ちゃん、ちょっと張り切って歌いすぎだベ!」
 と、母ちゃんも一緒になってケラケラと笑いながら、3人で何度もおどけて歌った。

 あの優しいおじいさんは、一体どんなお宝をもらって帰ったのだっけ?
 わざとおむすびを落としにいった意地悪じいさんは、一体どんな仕打ちを受けたのだっけ?
 そして私は…妻の握ったおむすびを持って出かけることすら、もう二度とできない。
 あぁ、せめてもう一度、妙子の握ったおむすびが食べたい。
 そんな悲痛な想いとは裏腹に、驚くほどひょうきんなお囃子とともに、あのフレーズが頭の中をぐるぐる、ぐるぐる駆け巡る。

 メロンパンは、とても美味しかった。これはこれで、ささやかな第一歩。そう言い聞かせ、そっと足元のおにぎりを拾った。

 家に帰ると、娘の由美が台所に立っていた。
「あ、おかえり。父さん」
「ただいま。おまえ、家の方は大丈夫なのか?悠太の保育園のお迎えとか…夕飯の準備とか」
「大丈夫、大丈夫!今日は裕二さんがリモートワークだから、お迎えはお願いしてきた。夕飯も任せてきたから大丈夫よ」
「それより父さん、ちゃんとご飯食べてる?またコンビニ弁当買ってきたの?ちゃんと食べなきゃダメよ!」
「まぁ、何とか食べてるよ。意外とコンビニのおにぎりや弁当も美味いもんだ」
 そう言って、さっきコンビニで買ったばかりの缶ビールを開けて、グイッと喉に流し込んだ。

1 2 3 4