バイト先から帰路に就いたとき、腕時計の針は午後九時を指し、陽はすっかり沈みきっていた。東京の夏は茹だるような暑さで、道ゆく人々の中には、滴る汗を拭うサラリーマンや、憂鬱を誤魔化そうと談笑する若者の姿が見られる。長い労働を終えて疲れ切っていた僕は、幾人もの人々が交錯し合う東京の街を、まるで何か恐ろしい存在から逃げ回るかのように歩き続けた。
今宵は満月だった。
渋谷駅前で、巨大なスクリーンから溢れ出る広告の音が響く中、スクランブル交差点をすれ違う人々にぶつかりながら渡り終えた僕は、ふと空を見上げてそのことに気づいた。同時に、自分が久しく上を向いていなかったことにも気づき、背筋を伸ばした。夜の闇が深くなる。行き交う人々の中に、今宵の月を眺めている人は一人としていなかった。僕は自分がひとつ得をしたような気分になって、暫し疲れを忘れた。
それから僕は駅のコインロッカーで荷物を取り、地下鉄で渋谷から自宅の最寄り駅まで揺られた。その後は、疲労困憊した身体をだらだらと引き摺って自宅である古ぼけたアパートまで歩いた。
アパートの近くに辿り着いたとき、僕は一人の華やかな着物を纏った女性を発見した。彼女は、教科書でしか見たことがないような艶やかな着物を着ていた。そして彼女は倒れていた。僕の他に誰もいない闇夜の閑散とした住宅街の路上で、仰向けになって倒れていた。僕はその突然現れたあまりに非現実的な光景に呆然としながらも、周囲には人気がなく、彼女を放っておく訳にもいかないのでゆっくりと近づいていった。
漆黒の闇の中に浮かぶ彼女の着物は、まるでそれ自体が眩い光を放っているかのような錯覚に陥るほど、煌びやかに輝いていた。街灯の明かりに照らされた細い首は消え入るように白く、その顔立ちは暗がりでもわかるくらい整っている。頼りない街灯の光だけでは物足りなかったので、僕は携帯の明かりを点けて彼女の顔を照らした。その白い頬を一筋の汗が伝い、彼女を一段と色っぽく見せる。