小説

『レモン』望月滋斗(『檸檬(京都)』)

 湯を吸ってむくむくと膨張したレモンが、柔らかい粘土のように姿形を自在に変えていく。目を凝らすと、どうやら手足が生えてきているようだ。そして、しばらくするとそれは精巧な人形(ひとがた)と化し、とうとう妄想で思い描いた通りの美女になった。
 私はその美女にエリカというありきたりな名前を付け、恋人にした。レモンから生まれたからといって『レモ子』などという短絡的な命名はしない。妄想とはいえ、ほどよいリアリティが欠けてはならないのだ。
 恋人ができて孤独から解放されたことは、私に多大なる幸福をもたらした。
 日常の些細な失敗を笑い飛ばしてくれたり、夜な夜な未来のことを語り合ったりする相手がいる。気づけば、そんな幸せがえたいの知れない不吉な塊を覆い隠してくれていた。
 いつしか私は学生という身分すら忘れ、レモンから妄想で作り出した婚約指輪を手に、エリカへプロポーズした。ひいては、夫婦で新たに一つのレモンを湯の中へ沈め、のちにコタロウと名付けられる息子も誕生した。


 コタロウがみるみると成長している幸せな状況に、夫婦で「そろそろ六畳一間では窮屈だから引越そうか」などと話していたある日のことだった。
 夜中にガタゴトと物音がして目を覚ますと、隣で川の字に寝ていたはずの妻子がいないことに気がついた。
 慌てて明かりを点けると、玄関に大きな荷物を背負った二人の姿があった。まるで夜逃げのようである。
「こんな時間にどこへ行くんだよ」
「来ないで!」
「なんだよ、急にそんな大きい声出して」
 眠い目を擦って視界が鮮明になったそのとき、私は目の前の光景に思わず言葉を失った。
 しわくちゃの顔に、腰が曲がって二回りほど小さくなった身体。そこにいるエリカが、老婆と化していたのだ。

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