小説

『白狐』杉蔵一歩(『運』芥川龍之介)

 
 あの人は、幸せなのだろうかと、ユキは考えた。ユキが焦がしてしまった飯でも勢いよくかきこみ、鼾をかいて寝て、暇があれば酒を飲むだけだ。楽しそうな顔など見たこともない。けれど、たしかにいつも安らかな様子だと思う。それが幸せってものなのか。何にもできない自分でも、いなくなったら、勇吉は困るのか。
 ユキはうなだれていた顔をあげて、言った。
「あたし、あの人に盗みをやめてって言います。お金がなくたって、二人で仲良く暮らせればいいもの」


 ユキは家に戻り、身を縮めるように部屋の隅に座った。勇吉は酒を呑んでいた。
 往来には物売りの声が響き、せわしなく行き交う人の足音がやけに大きく聞こえてきた。
 ユキも勇吉も、しばらく無言のままだった。ユキが話を始めようとした時、勇吉がやっと口を開いた。
「俺は盗みをやめようと思う」

  
 それから三日ほど、勇吉は何かを思案していたようだが、四日目の夜に人に会うと言って出て行った。
 この半年いろんなことがあったとユキは思った。ようやく勇吉と本当の夫婦になれた気がする。サヨと話さなければ、思い煩うばかりだったろう。
 布団に入ったユキが、うとうとし始めた頃だった。
 白い女の顔が、ぼんやりと見えた。母だろうかとユキは目を凝らしたが、風に乱れた髪が女の顔を覆った。女がするりと着物を脱ぎ捨てると、その体は白い獣だった。長い尾をゆらりと動かすと、神社の木立の暗がりへ消えていった。
 ユキは、はっとして目を開けた。不思議な夢だ。妖しい姿だったが、恐ろしくはないように思えた。
 その時、物音がした。外から戸を叩く音がする。
「ユキ、開けろ」勇吉の押し殺した声が、暗闇から聞こえてきた。
 ユキが戸を開けると、勇吉が苦し気な声で囁いた。
「逃げるんだ」
「どうしたの」ユキの声が震えた。
「盗人連中に盗みをやめると言ったら、今までの稼ぎを返せと言われて争いになってな。やっと抜け出してきた。ここまで追ってくるかもしれん。逃げよう」
 勇吉はそう言うと、押入れから金の入った包みを出して抱えたが、足がよろけた。
「さっき足を挫いた。おまえ、これを持って先に行け。天分橋の下で落ち合おう。俺は後ろから行くから」
 ユキは勇吉から、ずっしりと重い包みを渡された。
「おまえの顔は知られてるかもしれん。急いで行けよ」
 知らぬ男が追ってくる姿が目に浮かび、ユキは身震いをした。

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